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川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩
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歴史
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第四章 二つの川を開削し、三つの掘割を埋め立てた帝都復興事業

『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』
[著]岡本哲志 [発行]PHP研究所


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〓 土地区画整理と掘割の開削



 大正12(1923)年9月1日、関東一円に非常に強い直下型地震、関東大震災が発生した。被害総額は約45億円(日銀推計)にものぼるとされる。緊急事態に際し、翌日には8月24日に急死した加藤友三郎(1861~1923年)首相の後任として、同じ海軍出身の(やま)(もと)権兵衛(ごんべえ)(1852~1933年)が約9年の時を経て再登板し内閣を新たに組閣した。内務大臣は()(とう)(しん)(ぺい)(1857~1929年)が就任し、被災した東京の抜本的な都市改造となる帝都復興計画が描かれる。この帝都復興計画案は、国家予算を超える41億円の額が示され、「(おお)()()(しき)」と呼ばれる大規模なものだった。帝都復興計画の予算は、後に大幅に削減され、最終的に当初の7分の1にも満たない5億7500万円の規模で実施に移されることになる。1224日には東京と横浜の都市計画を規定する特別都市計画法が公布された。


 土地区画整理事業は、関東大震災で被災した土地を新たな近代都市として甦らせる帝都復興計画の最大の目玉事業となる。その狙いは、権利関係が複雑な土地の区画を整理し、一方で新たな道路を捻出し、公園や学校といった公共用地の確保にあった。既成市街地の土地区画整理は大正13年から15年にかけて実施された。大正期の東京は、明治5(1872)年から試みられた銀座の煉瓦街建設、明治20年代からはじまる市区改正事業の起爆剤となる丸の内の再開発、市電開通に向け拡幅された道路の周辺を除けば、大半がまだ江戸の風景の延長であった。帝都復興事業は、日本橋、京橋、神田といった町人地になおも残り続ける江戸の風景を近代的な街並みに変貌させた。


 ただ面的に大規模に展開する土地区画整理事業は、民有地の減歩だけで成り立たせることが難しく、土地の所有者も納得する話ではなかった。その時、瓦礫処理に伴い埋め立てた掘割跡の土地が昭和通りなど新設道路にあたる民有地の換地として効力性を発揮する。江戸の風景が関東大震災後の土地区画整理で大きく様変わりした。この章では、主に道路整備に伴う埋め立てられた掘割跡と河岸地への換地のあり方を見ていき、現在の風景へ至る背景を探ることにする。取り上げる掘割は、新大橋通りの拡幅整備に伴い埋め立てられた入船川、昭和通りの整備に伴い埋め立てられた西堀留川、鉄砲洲通りの拡幅整備に伴い埋め立てられた鉄砲洲川である。


 関東大震災では陸上交通が大きな打撃を受けた。都市交通のあり方の一つとして、水上交通にも目が向けられるようになる。江戸以来の河岸湊の機能が近代設備を整えつつある隅田川沿いやその河口の埋立地に大きく移行するなかで、縦横に巡らされた掘割をネットワークする水上バスが都市交通として機能した(図22)。その時、新たな掘割も開削される。築地川・楓川連絡運河はその一つの例である。新規開削だけでなく、京橋川では折れ曲がった掘割の河道を真っ直ぐにする工事が帝都復興事業によって試みられた。紺屋橋から京橋にかけての京橋川が一例としてあげられる。




〓 新たに開削された入船川と築地川・楓川連絡運河、その後の埋め立て(G)


〓入船川、桜川、築地川・楓川連絡運河を歩く


 入船川は、掘割の一般的な寿命からすると、開削から大正13(1924)年の埋め立てまで56年間と、60年も経たずに姿を消した極めて短命な掘割であった。さらに、昭和5(1930)年に帝都復興事業で新たに開削された築地川・楓川連絡運河は、昭和35(1960)年に首都高速道路建設のために埋め立てられたことから、31年と掘割の寿命はより短い。短いサイクルで終焉してしまう掘割は、近代の内陸舟運の盛衰と重なる。ただ、入船川跡周辺は帝都復興事業で道路の形状や土地の区画を変えておらず、入船川の当時の痕跡を地図に描き込みやすい。しかも、桜川や築地川、築地川・楓川連絡運河の跡を組み合わせたルートで歩くと、かつての島原遊郭の外郭を奇しくも歩くことになる。


 現地を見るために最寄り駅である東京メトロ有楽町線新富町駅に降り立つことにしたい。新富町駅は築地川を空堀にした後に、首都高速道路都心環状線の地上出口、新富町出口まで延伸した高速道路の下に地下鉄の駅が設けられた。新富町駅から地上へは、5番出口が一番近い(図19参照)。


 まずは、入船川跡を北上しよう。入船川にはかつて五つの橋が架けられたが、現在はその痕跡すらないように見える。しかしながら、思いのほか現状から入船川の跡を空間の仕組みとして読み解くことができる。新大橋通りの西側は、河岸地部分だけを道路拡幅したに過ぎず、大橋通りに面するビルが建ち並ぶ細長い宅地が入船川の跡であり、宅地の幅が入船川の幅となる(写真9)。宅地の西側に接する道は入船川が埋め立てられる以前からあった。

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