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八重と会津落城
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歴史
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第九章 もはや勝利なし

『八重と会津落城』
[著]星亮一 [発行]PHP研究所


読了目安時間:36分
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 「若松城の明け渡し案」に頼母激怒

 会津城下の戦いは、若松城にこもっての籠城(ろうじよう)戦となったが、城内にはさまざまな声があった。政務総督の梶原平馬(へいま)は新たな援軍が見込めなければ、この戦争に勝ち目はないと考えていた。

 旧幕府軍を率いた古屋佐久左衛門(ふるやさくざえもん)衝鋒(しようほう)隊に使者を送り、大鳥圭介(おおとりけいすけ)にも会津にとどまるよう説得したが、補充の小銃も弾薬もない。留まることは困難だった。

 勝利する道は一にも二にも援軍の到来である。このままでは食糧がない、銃砲がない、城内には多くの婦女子、子供がいる。どこからどう考えても勝利はありえなかった。

 苦心してつくり上げた奥羽越(おううえつ)列藩同盟も、緒戦の白河で敗れて大いにつまずき、長岡藩も河井継之助(つぎのすけ)の戦死で消えてしまった。米沢藩も腰が引けた。

 こうなった以上、降服しかないと平馬は考えた。万が一、主君・容保(かたもり)が命を落とすような事態があれば、会津藩の再興(さいこう)はまったく不可能になる。

 平馬は、若松城を明け渡すことを口にした。

 それに対して顔色を変えて怒鳴ったのは、西郷頼母(たのも)であった。
「今日に至って和を説くとは何ぞや。城を(まくら)に一死君恩(くんおん)(むく)いるあるのみ」

 と全員をにらみつけた。頼母は何ごとにもまず反対だった。別に対案があるわけではない。平馬は頼母を嫌った。
「一体、西郷は何をしたのか。いつも反対、反対ばかりではないか。苦境にあえぐ会津藩の今に何か貢献したのか」

 原田対馬(つしま)海老名郡治(えびなぐんじ)も同じ思いだった。平馬は頼母をこのまま放置すれば、「城内の一致を(やぶ)る恐れあり」(『会津戊辰戦史』)と頼母の城外追放を決断した。


 「家老御免御」――解任と復職の繰り返し

 考えてみれば、頼母も不遇(ふぐう)な人物だった。

 容保の京都守護職就任に反対した頼母は国許(くにもと)へ帰り、若松の東北にある舟石の山下長原村に隠棲(いんせい)した。史料によって「職を辞す」と「家老御免(ごめん)御叱」(解任)の二つに分かれてどちらとも言えないが、おそらくは後者の蟄居(ちつきよ)ではなかったか。

 それから四年余り、幕末会津藩の多難の時期、「栖雲亭(せいうんてい)を営み配所(はいしよ)の月をよむ」暮らしをしてきた。ところが慶応四年(一八六八)正月、鳥羽・伏見の戦いが始まると、頼母は突然、(にわ)かに職を復された。

 幕閣から江戸を離れるよう命ぜられた時、会津兵をまとめて引き揚げさせたのは頼母だった。この頃、容保は輪王寺宮(りんのうじのみや)を通じて謝罪歎願(たんがん)書を提出し、恭順(きようじゆん)の態度を表明していた。頼母の復職は、容保のこのような気持ちの反映であったかもしれない。

 会津へ戻った頼母は藩論をまとめ、(うるう)四月には家老連署(れんしよ)の筆頭にも名を連ね、朝廷に恭順謝罪の歎願書を提出した。しかしこの歎願書は、奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府参謀の世良修蔵(せらしゆうぞう)によって退けられてしまう。

 かくて戦争となるのだが、容保は白河口の総督に頼母を選んで惨敗。頼母はふたたび、謹慎を命ぜられてしまう。これら一連の人事はどういう意図だったのか。繰り返し述べるが、よく検証される必要があるだろう。


 西郷家の悲劇――一族二十一人の自決

 頼母のことを考える場合、もう一つ状況を複雑にしているのは、嫡男(ちやくなん)吉十郎(きちじゆうろう)を除く家族全員が自決したことである。敵が国境を破り、若松城下に迫った時、頼母はふたたび呼び出される。この際、家族とどのような会話を交わしたのか。
『会津戊辰戦争』には「吉十郎まだ十一歳なれば、もとより主君(しゆくん)の用をなしがたし。万一の際、家族とともに処置(しよち)すべきことを家僕(かぼく)に命じ城に入った」とある。

 その他さまざまな表現があるが、吉十郎をのぞいた一族二十一人の自決は「西郷家の悲劇」として後世まで語り継がれる。

 山川家や八重の家族とは、まったく異なる対応であった。なぜに全員が自決したのか。相次ぐ謹慎(きんしん)の身であれば、家族は肩身の狭い思いをしていたに違いないが、何とも不幸な一族だった。


 城を追われ、突然、箱館へ向かう

 頼母の城外追放には容保も気を遣った。

 日頃は協調性がなかった頼母だが、この時は「平生と異なり虚心坦懐(きよしんたんかい)(もつ)て人言を()れ、全力を傾注して指揮(よろ)しきを得」たので、城中皆大いに安心したという。

 ところが八月二十六日、長男・吉十郎を連れて城を出た頼母は、高久村に在陣する家老・萱野権兵衛(かやのごんべえ)のもとに向かうと、その足で米沢を経て仙台に行き、榎本武揚(えのもとたけあき)の軍艦に身を投じて箱館(はこだて)に向かってしまった。

 これを知って二名の刺客が頼母を追ったが、姿を見失ったとして暗殺することはなかった。この時の光景を、小姓(こしょう)井深梶之助(いぶかかじのすけ)が目撃していた。梶之助の母は頼母の妹であり、梶之助にとって頼母は伯父(おじ)である。

 のちに梶之助が振り返っても、頼母の人生はあまり恵まれたものではなかった。何度か主君に諫言(かんげん)(てい)したが、いつも容れられず孤独な人生だった。

 城を出る時、容保とどういう言葉を交わしたのか。残念ながら梶之助は覚えていなかったが、ただ一つ頼母の最後の言葉を記憶していた。それは声高らかに、
「吉十郎ももはや、牛や馬に踏み潰されることもありますまいから、馬の尻尾(しつぽ)につけて連れて参ります」

 と結んだその声は、梶之助の耳の底にいつまでも残っていた。

 吉十郎は梶之助にとって従兄弟(いとこ)にあたる。伯父・頼母は、皆から(うと)まれていた。身分にこだわり、威張(いば)り散らしていたことは事実である。しかし梶之助の母に言わせれば、「優しい兄だった」という。

 国家老として戦争の責任を取って死んだのは、頼母が最後に会った萱野権兵衛だった。会津藩にとって頼母はいかなる人物だったのか。今もって評価が分かれるのは致し方ないが、いずれにせよ会津藩にとって筆頭国家老に人物を得なかったのは不幸であった。


 身を粉にして働く――城外で白虎隊と間違われる

 城内の女性たちは頼母の事情など知る(よし)もなく、ずっと身を()にして働いていた。炊事、看病、汚れ物の洗濯(せんたく)、水()み、兵糧運び、弾薬の製造まで真っ黒になって働くが、水浴びも入浴もない。
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