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ことばのスケッチブック
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生き方・教養
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序に代えて

『ことばのスケッチブック』
[著]楠本憲吉 [発行]PHP研究所


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読む・書く・話す


読む



 普通、言葉といえば「人がものをいうときに使う、音の組み合わせ」のことをいうが、広義にとると、音声による表現ばかりでなく、「文字」による表現もさす。「書き言葉」とか「文章語」というのがこれにあたる。これらは人によって読まれる言葉である。



  人それ書を読んでゐる良夜かな  山口青



 という句があるが、夫は夫で、妻は妻で、子どもは子どもで静かに読書に耽り、楽しんでいる団欒図――。


 良夜とは別に深夜、夜ふけの意味もあるが、昼をあざむく月光に明暗の影がくっきりしている静かな月の夜、俳句では多く十五夜に使われている。庭には(あまね)く月光がさしわたり、室内ではそれぞれ静かに読書を楽しんでいるというのである。しかしながらごく一部の家庭(あるいは学生寮、社員寮でもいい)を除いて、こういう風景は余り見られなくなってしまった。テレビの普及の結果である。テレビの映像と音声が、読書に必要な環境と時間を奪ってしまったとみてよいだろう。活字文化の衰退に比例して映像文化の拡大である。故・大宅壮一氏はテレビ文化を批判して「一億総白痴化」といわれたが、さすがに一世一代の警世家の弁である。


 佐藤泰正氏著『速読術入門』によると、

「本を読むの『読む』ということばの語源は、『呼ぶ』から転音したもので、もともと声を出して呼ぶ、音読することから出たもの。英語のREADも、ドイツ語のREDEN(話す)と同義であったというから、読むことは声を出すこと、口を動かすことともとは同義語であったわけだ」


 とある。我々が小学生の頃には、国語の時間に指名され、一人ずつ音読させられたものである。学芸会などで数人が舞台に上り、声を張りあげて父兄や生徒、先生の前で音読するという一幕もあったのである。夕方から夜にかけて道を歩いていても、読本を音読する子どもの声がよく窓から洩れてきたものである。今ではテレビやラジオ、レコードの音声を洩れ聞くことはあるけれども、まず、読書の声を聞くということは絶滅してしまったといってよい。


 われわれ人間は音読ができるが、黙読もできる才能をもっている。


 そして黙読のなかでも熟読あり、速読あり。速読のなかでも、走り読み、探し読み、拾い読み、斜め読み、飛ばし読みといろいろある。


 私はたとえいかなる読書法にしろ読まないより読んだほうがよいと思う。乱読、速読のほうが、読まない「()(どく)」よりはるかによいと思うのだ。


 ではいったい、人間、一年間にどれだけの本を読めばよいか、あるいは読むべきかというと、私の先輩であり国文学者であるI先生によると、最低一年一万ページ以上といわれている。一万ページというと大変な数のようだが、これを十二で割ると一カ月に九百ページ弱、一日にして三十ページということになる。わずか一日三十ページである。一日に三十ページずつ毎日読んでいくとそれが積もり積もって一年間に一万ページとなり、見事、読書家の仲間入りができるのだとI先生はおっしゃる。


 全くその通りで、時間がない、ヒマがない、余裕がないとはいわせない。そういうことをいうひとに伝えておきたい。あの三重苦の聖女、へレン・ケラー女史ですら、三重苦の身でありながら、われわれよりはるかに膨大な読書量を誇るひとであった。それらはすべて秘書のサリバン女史が、ヘレン・ケラー女史のてのひらに指で書いて読ませたのであった。また、視力を無くし、指先がマヒしても、なお点読の代わりに、舌で読む舌読家の、ハンセン氏病患者のあることを知っている。


 だから人間、成せば成るである。要は意志の問題である。


 もう数年も前のことになろうか。私の手元に『源氏物語研究』という本が豊橋のNという女性から送られてきた。Nさんは女流俳人ながら大変な勉強家で、仲間の奥さんを十人余り集めて、週一回夜二~三時間、名古屋大学の国文学の先生を囲んで『源氏物語』の講義を受けつつ、何と十年近くかかって、一人の脱落者もなくこれを読破し、その記念として、一人一篇ずつ、たとえば「源氏における服飾の研究」とか「源氏におけるたべものの研究」とかいったテーマの文章を書き、それを一本にまとめて私のところへ送って下さったわけである。


 私はしみじみえらいなあと思い、こういうひとたちを勝気な女性というんだなあと思った。勝気とは人に負けまいとする気持をいうのではない。自分自身に勝つことのできるひとのことをいうのである。


 では、読書は何のためにするのかといえば、ひとえに知性の涵養にある。いってみれば精神の美容体操をすることにある。


 思想というものは、それを創造する人間からむだなもの一切を取り削ぎ衰えさせる働きをするものだ。つまり、生命の剰余物を消費させる役割を果たすものなのである。


 思想の涵養につながる、真に厳粛な読書というものは、魂と肉体から不当な部分や不要な要素を削除してくれるものなのである。


 しかも、美にとって知性が不可欠な条件である以上、美容の体操よりも読書をすすめる私の意図がけっして奇を(てら)ったものではないことがわかっていただけよう。


 ヨーロッパの古い諺に、「家庭には三つのしあわせな音がある。そのひとつは主人が家にいて静かに本を読んでいる音。他のひとつはその傍らで奥さんがゆっくり(はた)を織っている音。更にもうひとつはそのそばで子どもが元気に遊び戯れている音」というのがある。銘すべき一言だと思う。


書く



 一時はトーキング万能時代で、すべて電話でこと足り、手紙やハガキなど無くなってしまうのではないかといわれた時代もあったが、最近は文章表現法に対する社会的な要望が高まってきたようである。マスコミの手段としての文章のメリットが再評価され出し、情報産業における文章の役割も新しく評価されるようになってきた。


 従来、文章は書き言葉であって、話し言葉とは異質のものとして扱われ、考えられてきた。しかし、現代では、改まったときに使う話し言葉となると、書き言葉にかなり接近し、重複してきているといっていいだろう。


 口述筆記などという作業は、書き言葉の話し言葉と見られぬこともない。


 モノを書くという作業は、ひと口でいえば「言葉選びと言葉並べ」である。文章が言葉選びと言葉並べである以上、言葉の数を少しでも多く知っているひとの方が、知らないひとよりも文章家だといえる。だからといって、言葉の数を最も多く知っているひとが最高の名文家であるという定義は成り立たず、このことは辞典の編者が最高の文章家ではないという事実を見ればすぐ分かることである。また、受験生が単語を覚えるように、言葉を覚えて、ボキャブラリーを殖やすことが名文家となる道だということもできない。


 言葉の数よりも、一語一語の言葉の持っている意味の広さと深さ、言葉の持つ機能の領域を知ることが文章家にとって大切なことなのである。つまり筆者の感動、意見、感想、主張、あるいは主題、話題を鮮明に伝達できる「生きた言葉」を求める努力が一番大切だといっていいだろう。


 文章を書くということは自分の意見や感想や主張を第三者に知ってもらいたい要求から起こる。この要求は内的必然性に基づく場合もあれば、外的必然性(外部からの要請あるいは強制)による場合もある。むしろ後者のケースの方が多いに違いない。


 そのためには、「わかりやすい文章」を書くということが文章表現法の絶対的な基本だと思う。ましてやマス・コミュニケーションの時代である。一人でも多くの読み手から理解され、賛同を得る――そのためにもわかりやすい文章を書く必要が生じてくる。


 わかりやすい文章といえば、とかく、やさしい文章ということになり、やさしい文章といえば、程度の低い文章だとする考え方が一部にあるが、わかりやすい文章は決して低級ではない。むしろわかりやすい文章を書くということはなまやさしいことではないのである。


 谷崎潤一郎氏は『文章読本』の中で、「現代の口語文とは、専ら『分らせる』『理解させる』と云うことに重きを置く」と述べているし、川端康成氏も『文章読本』の中で、「いかなる美文も、もし人の理解を妨げたならば、卑俗な拙文にも劣るかもしれない」と書いておられる。


話す


「読み書きソロバン」の時代は去って、トーキングの時代がやってきたとよくいわれる。


 事実、「モシ、モシ」が「一筆啓上」に取って代っていることは否み難い。


 上代には口誦文芸があって、時代の要請により言葉が生まれ、言語文芸の発生を見たわけであるが、歴史は繰り返すではないが、現代は言語時代から口誦時代へ逆行しつつあるのであろうか。この現象の背後にはコンピューター革命があって、その革命に応ずる書き言葉の革新が大いに影響していると思うが、いまはそのことには深く触れないでおく。

“長メシ、長シャレ、長電話”が女性の三悪だといわれているが、女性の長電話の世界記録は七時間十一分。アメリカ、バージニア州のロノーク警察へかかってきた時計の盗難届けで、午前十一時四十四分にかかってきて午後の七時少し前にやっと終わったのだが、それは女性が、途中、受話器を持ったまま眠りこんだからであった。


 私は女性の長メシ、長電話は、男性の長酒、ハシゴ酒より罪は軽いと思っている。


 夜の時間どきの小料理屋、すし屋、飲み屋には、必ず「喋り上戸」というひとがいるものだ。この種のひとはあたりのお客など眼中になく、大声で喋りまくる。内容は大方、会社への不満、上司への不平、仲間の批判であって、聞くに耐えないの一語に尽きる。


 タクシー・ドライバーにも話し好きのひとがいて、客の反応を顧みず、喋りまくるひとがいる。内容はおおむね下らない。その他、交通整理のお巡りさん、国鉄の車掌さんにもお喋り好きなひとがいる。こういうひとたちは「沈黙」の味に対して味覚音痴なのであろうか。まさか黙っていると口の中にムシがわくのでもあるまいに――。


 おしゃべりムードの高まりと同時に言葉の揺れ、乱れも大いに気になるところである。


 元国立国語研究所第三研究部長であった見坊豪紀氏からうかがった話だが、学校の先生が生徒たちに、「君たちは進んで人のいやがることをしなければいけません」といったら、男の子が女の子のスカートをまくったという話。ある良家の子女に、「お嬢さん、いまどうしていらっしゃるのですか」とたずねたところ「おつとめに出ています」。「どうしてですか」とたずねると、その女の子いわく「家にばかりいると世間ズレがしますから」と。変だなと思ってよく聞いてみると、家にばかりいると世間からズレルの意のことをいっているのだという話……。


 私なども日常、ときどき首をかしげる表現に会うことがある。それもいい年配のひとのことばづかいのなかで――。

「キミ、こちらクスモトさんだよ」

「ハイ、私、よくご存知です」


 こういうのを自称敬語というのであろうか。

「現金にしますか、小切手にしますか」

「どちらでもいいよ」

「じゃ、小切手で結構ですね」


 なんかいう表現に出くわすことは、もうざらである。


 二歳になるウチの孫が、週二回、幼稚園に通っている。


 ある時、幼稚園の先生が、「七つの子」という歌を子供達に歌わせたところ、一斉に、



   カラスなぜ鳴くの


    カラスの勝手でしょ



 と、みんな歌い出して、先生をビックリさせたそうである。テレビの影響がいかに大きいかを示す一例であろう。


 銀行の待ち合いコーナーでのこと。若い女子行員が、後ろの、男性先輩行員の方を振り向いて、「抱いてちょうだい!」といった。真昼間の厳正なる銀行支店内での出来事である。


 あとで支店長に伺ってみたところ、「ダイテ」というのは「代理人受け取り手形」の略語「代手」のことという銀行専用語であることを知り苦笑いしたこともあった。



電子書籍作品には、現代では使用されなくなった表現や、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の時代背景や当時の事情を考慮し、かつ作品性を尊重するため、初出をもとに収録しております。作品には差別的意図がないことをご理解いただけますようお願い申し上げます。

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