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「三国志」軍師34選
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歴史
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第五章 名士から貴族へ──西晋の中国統一

『「三国志」軍師34選』
[著]渡邉義浩 [発行]PHP研究所


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(しばい)──名士の支持を集める

(しばい)(一七九〜二五一年)

(あざな)仲達(ちゅうたつ)河内郡温(かだいぐんおん)の人。(さいえん)(じゅんいく)に評価され曹操(そうそう)に仕えるが、才能を警戒される。文帝曹丕(ぶんていそうひ)のときに陳羣(ちんぐん)と並び行政の最高位にのぼり、明帝曹叡(めいていそうえい)のときに諸葛亮(しょかつりょう)の侵攻を防ぐことを通じて軍事権を掌握する。一時、曹室の権力の建て直しをめざす曹爽(そうそう)に権力を奪われるが、正始(せいし)の政変により曹爽を打倒、王浚(おうりょう)の乱を未然に防ぎ、司馬氏の基盤を作りあげた。狼のように後ろを振り返ることができる狼顧(ろうこ)(そう)で、顔だけ真後ろを向けたという。
(『晋書』巻一 宣帝紀)

名士と軍事権

 司馬懿は、字を仲違といい、河内郡温県の出身です。幼いころ同郡の楊俊(ようしゅん)より「非常の(うつわ)」であると評価を受け、続いて兄の司馬朗(しばろう)を通じて、崔の評価を受けました。崔は、曹魏(そうぎ)の名士のなかで、荀を中心とする「潁川(えいせん)グループ」に次ぐ位置を占める「北海(ほっかい)グループ」(図を参照)の一員です。その評価を受けた司馬懿は、郡を超え全国レベルの名士となりました。さらに、潁川グループの中心である荀の推挙を受け、曹操に仕えて司空府(しくうふ)の幕僚となります。『晋書(しんじょ)』は、病気を理由に出仕を拒み、曹操に疑われた話をまことしやかに伝えますが、それは潤色と考えるべきでしょう。曹操が丞相(じょうしょう)になると、張魯(ちょうろ)の降服後に蜀漢(しょくかん)への征討を進言しますが、用いられませんでした。潁川・北海という曹魏の二大名士グループの評価を得ている名士本流の司馬懿に見合った地位や役割を曹操は与えておらず、『晋書』が潤色するほどではないにせよ、司馬懿は曹操に警戒されていたと考えてよいでしょう。

 二一七年、曹丕が魏の王太子になると、太子中庶子(たいしちゅうしょし)を拝命した司馬懿は、陳羣・呉質(ごしつ)朱鑠(しゅしゃく)とともに「四友(しゆう)」と呼ばれるようになります。曹植(そうち)との後継者争いで、曹丕(そうひ)を支援したためでしょう。二二〇年に曹操が卒すると、曹丕は後漢の禅譲(ぜんじょう)を受けて曹魏を建国します。後継者争いの際、名士に借りがあった文帝曹丕は、陳羣(ちんぐん)の献策に従い、名士に有利な官僚登用制度である九品中正制度(きゅうひんちゅうせいせいど)を制定しています。

 陳羣が卒すると、司馬懿(しばい)は名士の中心となりました。そして司馬懿は、軍事権を獲得していきます。すでに文帝のとき、司馬懿は撫軍大将軍(ぶぐんだいしょうぐん)でしたが、その領する兵は、わずか五千に過ぎませんでした。二二七年、明帝(めいてい)から都督荊(ととくけい)豫二州諸軍事(よにしゅうしょぐんじ)を加えられ、都督(ととく)となることにより初めて方面軍司令官としての資格を得、諸葛亮(しょかつりょう)に呼応して反乱を起こした孟達(もうたつ)を斬ります。二三〇年には、大将軍(だいしょうぐん)大都督(だいととく)となり、曹真(そうしん)と共に蜀に侵攻して敗退したものの、翌年、諸葛亮が天水郡(てんすいぐん)に侵入すると、長安(ちょうあん)に駐屯して都督雍(ととくよう)梁二州諸軍事(りょうにしゅうしょぐんじ)となりました。このとき明帝は、「君でなければ託せる者はいない」と言って、司馬懿に諸葛亮との戦いを委ねました。曹操のときには、曹氏と準宗室の夏侯氏がほぼ独占していた軍事権が、名士に渡ったのです。それとともに、曹氏の君主権力も衰退をはじめます。

五丈原と遼東

 二三四年、諸葛亮は孫呉(そんご)に挙兵を促すと、四月、十万の兵を率いて褒斜道(ほうやどう)より五丈原(ごじょうげん)に進みます。五丈原の蜀漢軍に対して、曹魏軍を率いる司馬懿は、国城(こくじょう)から渭水(いすい)の南岸に渡り、土塁を築いて本陣を設けました。背水(はいすい)の陣となります。慎重な司馬懿が、あえて渭水を渡った理由は、南岸の食糧貯蔵庫を守る目的と全軍の士気の高揚にありました。諸葛亮は、渭水を渡り北岸に出て、長安に東進したかったのですが、別動隊では郭淮(かくかい)に守られた北岸に渡ることはできませんでした。

 五月、明帝は、諸葛亮期待の孫呉軍を撃退しました。孫呉軍敗退の報を聞き、焦る諸葛亮に、司馬懿は持久戦を()います。動こうとしない司馬懿に、諸葛亮は婦人の頭巾と着物を贈りつけ、戦う勇気のなさを(はずかし)めました。しかし、司馬懿はまったく動じません。また、司馬懿は、諸葛亮の使者に亮の近況を尋ね、寝食を忘れた仕事ぶりと食事の少なさから、その死去が近いことを(さと)ります。果たして、八月、病魔に冒された諸葛亮は、自陣に落ちてくる星とともに病没しました。司馬懿は、撤兵後に亮の陣営を調査し、「天下の奇才である」と感嘆したといいます。

 諸葛亮との戦いで司馬懿は、蜀漢の兵糧が尽きることを待つ持久戦を取り続けました。孟達を利用した二方面作戦を防がれた諸葛亮は、益州からのみ攻めあがるので輸送が(とどこお)りがちとなり、持久戦に難があったのです。蜀漢の弱点を見抜いた見事な戦略です。これに対して、公孫淵(こうそんえん)との戦いでは、積極的に攻撃を加えます。

 遼東(りょうとう)半島では、後漢末以降、公孫氏(こうそんし)が漢から自立した政権を樹立していました。公孫淵は、表向きは曹魏に服従しながら、海路を通じて孫呉と結び、曹魏から独立したのです。司馬懿(しばい)は、遼隧(りょうすい)で待ち受ける公孫淵の裏をかいて、淵の本拠地である襄平(じょうへい)に突き進みます。長雨があがると、司馬懿は一気に攻めたてて襄平城を落とし、公孫氏を滅亡させました。意気揚々と引き上げる司馬懿に重大な知らせが届きます。明帝(めいてい)が病床についたのです。臨終に間に合った司馬懿に、明帝は曹爽(そうそう)とともに後事を託しました。司馬懿六十一歳のことです。

司馬氏政権の確立

 明帝の遺言により、司馬懿とともに幼帝の曹芳(そうほう)を輔佐した曹爽は、司馬懿を中心とする名士の勢力が、君主権力を(しの)ぐほど強くなった現状の打開を図ります。何晏(かあん)夏侯玄(かこうげん)丁謐(ていひつ)を行政の中心である尚書(しょうしょ)系統の官などに就け、中央集権的な政治をめざしたのです。これに対して、司馬懿はわずか一日の無血クーデターにより、政権を奪取しました。正始(せいし)の政変です。

 正始の政変の際、司馬氏を支持した者は、後漢の大儒盧植(ろしょく)の子である盧毓(ろいく)、『(こう) 子家語(しけご)』を著した王肅(おうしゅく)など、儒教を文化の中心に置く名士が多数を占めました。司馬懿は州大中正(しゅうだいちゅうせい)の制により名士の既得権を維持するとともに、儒教を尊重する名士を自派に取り込んだのです。そののち、曹操がはじめた屯田制(とんでんせい)のうち、軍屯(ぐんとん)を掌握して、経済的・軍事的な基盤を確立していきます。

 もちろん、司馬懿への抵抗がまったく無かったわけではありません。(おうりょう)の乱はその一つです。王浚は王允(おういん)の甥にあたり、司馬懿より七歳年長の曹魏の旧臣です。王浚は曹爽に見込まれて、曹爽を助けたことがあり、それへの報復を恐れたのでしょうか。曹彪(そうひょう)を擁立して、皇帝の曹芳もろとも司馬懿を亡き者にしようと謀ったといいます。しかし、計画は密告され、王浚は処刑されました。
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