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極道ぶっちゃけ話 「三つの山口組」と私
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ルポ・エッセイ
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第6章 古川雅章組長に殉じて

『極道ぶっちゃけ話 「三つの山口組」と私』
[著]竹垣悟 [発行]イースト・プレス


読了目安時間:29分
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たったひとりの「兄貴分」



 やくざの盃には「親子」と「兄弟」がある。


 私が初めて盃を受けた坂本義一ほか竹中正久四代目、中野太郎とは「親子」の盃を交わしているが、「兄貴分」は古川雅章だけである。


 山口組若頭・宅見勝射殺事件の翌月である一九九七年九月、中野会・中野太郎会長が五代目山口組から絶縁処分を受けたことで、私たち中野会の者はいったん三代目山健組・桑田兼吉組長の預かりとなった。

「宅見の事件はうちではないが、こうなった以上はしかたない。明日からは本当に厳しいぞ。おまえたちは本家に戻ってもええし、好きなところに行ってええからな」


 中野会長はこう言ってくれたのだが、本部は子分たちの意向も聞かずに山口組内の各組織に割り振っていった。


 当然ながら、私たちには不満があったが、それ以上に「中野の若い者なんか信用できない」と思われていたので、しかたないといえばしかたないことである。


 中野会長自身は引退せず、組も解散しなかった。


 そして絶縁処分を受けているにもかかわらず、「俺らは五代目の親衛隊や」と言い続けていた。


 さらに、中野会に「残党」が二百人ほどいたことは警察を驚かせた。いったん出た若い者たちも戻ってきていたのである。


 大阪府警は抗争を恐れて中野会を指定暴力団として監視を強めていく。絶縁された系列団体の指定は「国内初」と報じられた。


 指定の際に上申書を出すように言われた会長が「指定することに異議はない」「意見聴取には出席せず、代理人も立てない」と書いて署名したことがニュースになっていた。


 大阪府警によれば、「同意はきわめて異例」ということであった。


 中野会長からすれば、「そんなもん、好きなようにせえ」ということなのだが、思えば暴対法が施行された一九九二年前後は山口組ほかいくつかの団体が暴対法を違憲として提訴していたので、警察としては拍子抜けしたのであろう。


 私は三代目山健組本部長で片岡組を率いる片岡昭生組長の仲介で桑田兼吉の舎弟盃を受けることになっていたのだが、最終的には古川雅章率いる初代古川組に移籍になった。


 私が古川雅章組長の盃をもらうと決まったとき、片岡と木村会・木村阪喜会長が一緒についてきてくれた。

「義竜(私のこと)は中野会でいちばんの人材やから、俺たちが叔父貴(古川初代)のところに送るようにとオヤジ(桑田組長)から言われました」


 片岡がこう言って古川初代に紹介してくれたのである。


 あれからもう二十年もたってしまった。


 中野会系鈴木組に命を狙われたことのある古川初代は中野会長には恨みがあったと思う。


 一九九六年の中野太郎襲撃事件後、古川初代をつけ狙った中野会系鈴木組の若い者たちが古川組内琉真会組員に拉致されたことがあった。


 だが、琉真会も四代目の信奉者であり、凄惨な沖縄のやくざ抗争となった「沖縄戦争」(第一次沖縄戦争は一九六一年から、第四次は八一年で終結)で辛酸をなめていたこともあり、殺さずにヤキを入れただけで帰している。


 この話は、私と呑み分け(五分の対等な関係)の兄弟分だった琉真会二代目の仲本政英から聞いた。


死ぬまで極道や……



 古川初代は何かあったらすぐに手を上げ、曲がったことが大嫌いという、まさに極道らしい極道であった。


 年を取ってからはだいぶ丸くなったが、若いころはカニを「横歩きするから食わない」、エビを「バックするから嫌いや」とよく言っていた。


 懲役十年を務めた徳島刑務所を出所して渡邉芳則五代目に挨拶に行ったら、「ワシも古川みたいな極道になろうと思って今日まで来た」と言われたと、ときおりうれしそうに話していた。


 しかし、徐々に体調を崩し、実子の恵一を跡目にという話はかなり以前から出ていた。


 博徒系の組織で実子があとを継ぐ例はそう多くはないのだが、私も反対ではなかったので若頭に推薦したことがある。古川初代は、そのときは「まだ早い」と反対したが、それは建前で、心中では喜んでいたと思う。


 恵一も義理堅く、私の破門状が出ないように奔走してくれた。

(山口組)本家が兄貴の破門状を出せ言うてきてますが、俺は出んようにがんばってみます」


 電話でこう言ってくれたのだ。結局は私の破門状は出されるのだが、筋を通してくれたことに感謝している。


 しかし、古川恵一率いる二代目古川組は二〇一五年夏の山口組分裂の際に神戸山口組に合流したあと、一部が二〇一七年春の任俠団体山口組(のちの任侠山口組)の旗揚げに参加し、神戸山口組と任侠山口組の双方に「古川組」が存在する事態となってしまった。


 思えば、古川初代の末路も哀れなものだった。


 六代目山口組では居場所がなくなり、古川初代は二〇〇五年に引退し、実子の恵一に二代目を譲っている。


 このとき、私も一緒に引退した。

「おまえはアホやな」と言いながら、一緒に山口組を出たことを喜んでくれていたが、じつは山口組に未練を残したまま逝ったのである。


 車椅子に乗ったまま兵庫・(あまが)(さき)から福井県へ義理事に出かけるときに見送ったことがあった。その背中には鬼気迫るものがあった。


 だが、私は古川初代の引退が近いと思い、正直にたずねた。

「親分、これからどないしますねん?」

「どうって……ワシは死ぬまで極道や……」


 ほとばしるように答えたことを覚えている。


 それからしばらくして、本家から山清司や橋本弘文、それに最後は岸本才三と野上哲男がやってきて、「古川組二代目襲名」と「古川雅章の引退」が決まった。

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