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人間通でなければ生きられない
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生き方・教養
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急 人間通になるために『童子問』を読む

『人間通でなければ生きられない』
[著]谷沢永一 [解説]山野博史 [発行]PHP研究所


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人間関係心得・『童子問』

今、何故、『童子問』なのか


 今や新しい時代に入り、もう一度、人間とは何か、人間が生きて行くとはどういうことなのか、そして現実にどうやって生きて行ったらよいのかという問題を、各人が各々の人生に応じて考えて行く際に、大いに参考となる五人の意見や生き方を前章で提示した。


 生き方、ものの見方、考え方、批評の仕方等について、学ぶべき先例は数多いし、二千年になんなんとする我が国の歴史をさかのぼれば、気の遠くなるほど多くの理論的遺産もあれば、説教、ハウツーものさえある。


 この中で、人間性を基本テーマに据え、同時に日本人らしいニュアンスをつけ加えた書物で、これからの時代に我々が参考にできるようなものはないか。どのような欲求を持ち、どのような性質を持った人も、いちばん根本の出発点、スタート地点で、これからの自分の人生のデザインを、どう描くべきか考えるだろう。その際、最低限の基本姿勢を決めるのに役立てるという観点に立って振り返ってみるなら、私は江戸時代の儒者、()(とう)(じん)(さい)(一六二七─一七〇五)の著した『(どう)()(もん)』という本が、改めて役立つのではないかと思う。つまり、人生のあらゆる課題について、充分に適応できるような普遍的な内容を持った、今読み返す価値が充分ある書物だと思うのだ。


 それでは一体、何故『童子問』なのか。

『童子問』の著者、伊藤仁斎は寛永年間の生れ。亡くなったのは宝永年間だから、江戸時代前期に活躍した儒学者である。一生独立独歩の学者として、また私塾「古義堂」(京都堀川)の経営者として、誰にも仕えず、生涯を独立した自由人として生きた人物だ。


 さて江戸時代は、学問研究や教育の大変盛んな時代。幕府には現代の東京大学に相当する(しよう)(へい)(こう)という学問所があり、各藩にも藩校があって、これは現代の国公立大学の如きもの。各々に教授がおり、好学の士はそこで学んだ。ところが各学問所の「(ぶん)(がく)」と呼ばれる儒官は全国にゴマンといたが、嘆かわしくも後世読むに足る著述を残した人物は皆無に等しい。


 それなら真にこの時代の学問を支えていたのは誰か。現在で言うなら(わたくし)(りつ)、原則として(おおやけ)の禄を()まない民間の学者たちであった。本居宣長は紀州藩から僅かの禄を貰っていたが、これも客員教授の如き立場で、実際は全く流行らぬ小児科医。


 現代でいう科学的な意味での学術研究で、近世最高の人物は(けい)(ちゆう)。この契沖も水戸公から最低の禄を貰ってはいたが、職業は僧侶で、大坂の()れ寺に住んでいた孤高の人。


 彼らの活動は秘やかだったから、こうした人々の講義が聞けたり、主催する私塾で学問ができればまさに(ぎよう)(こう)。彼らの著作が公の目に触れることなど本当に稀なことだった。契沖(ひつ)(せい)の著述も、宣長の文学研究も、非常な苦労をなめ、誰かの犠牲の上に立って、ごくごく僅か出版されたにすぎない。メディチ家の如きパトロンや、文部省の助成金を受けつつ研究に励むといった学者の勉強には程遠い作業、在野学者が、自分自身の力だけを頼りに学問を続けていたのだ。


 この在野学者の典型にして、もっとも純粋な先駆的存在がわが伊藤仁斎。


仁斎は江戸時代の人間関係論論者だった


 京都堀川に開いた私塾「古義堂」には、全国津々浦々から入塾希望者が絶えず、塾生を送りこまなかった藩はたった三つ。隠然たる名声を誇っていたのだ。伊藤仁斎は当時としては長命で、かなりの著書を残しているけれど、すべてが草稿。仁斎死して原稿の山を残したが、著書は一冊も残さなかった。貧しくてのことではない。当時の学者は、一代で学問が評価され、社会的に認められるなどと、ゆめにも思っていなかった。


 歴史をロング・レインジで見詰め、自分の死後、学問の価値のわかる者が読み返して納得し、世に広めてくれればよいというのが基本的な考え。伊藤仁斎が著書を残さなかったのもそうした自信の表われで、考えてみれば恐るべきエネルギーを秘めた人物であった。仁斎はどんなに時が経ち、どんな時代になっても、自分の書物は時代に適合して、読まれるに違いないと確信していたのだ。


 この独立()()、真の自尊心。他人に認められることで支えられる自尊心でなく、一切黙殺され評価を受けずとも自分は正しい道を歩んでいるのだという自尊心。これが伊藤仁斎を支えていた。


 江戸中期までの人文科学系の学問はたった二つ。一つはシナの古典の解釈学。もう一つは仏教で、日本の古典は学問の対象ではなかった。近世期の日本人の心の(かて)は、『論語』であり、『孟子』であり、『十八史略』であり、『唐詩選』であった。


 現在、岩波の古典文学大系や思想大系に収録されている古典は、確かに日本人が生み出したものだが、近世期の日本人が精神の養いにした、彼らにとっての古典とは、全くの別物であったのだ。


 つまり、長い期間にわたって、日本人の精神の骨格を形成して来た書物は、シナのもの。だが江戸の人々は決してこれをシナのものとして読んだのでなく、日本の古典として、更に言うなら、広く人間一般の書として読んだのである。


 明治三十年代、東京帝国大学教授井上哲次郎は、近世思想史を初めてまとめて、『日本古学派之哲学』『日本陽明学派之哲学』を著したが、この中でも伊藤仁斎は単なる儒学の解釈学者、儒学のイデオロギーをこねくりまわし、練り直し、少し新しい理論を立てるといった一連の学者のワン・オブ・ゼムとみなされた。


 これに対して、戦中から戦後にかけての研究で、(なか)(むら)(ゆき)(ひこ)は伊藤仁斎の論語・孟子研究が、文献読解学でなく人間探究学、現代で言うなら、人間関係論であったことを明らかにした。伊藤仁斎は、論語・孟子を読むことによって、人間とは何か、人間はどうあるべきか、人間はどう生きるべきか、自分とは違う個性とどう上手につき合えばよいかという、現代に生きる我々にとっても切実な問題に迫っていたのだ。


 伊藤仁斎の著書は多いが、その中でどうしてもこのことは言っておきたい、自分の最終的な主張はこれだというものが、『童子問』。学問に志す(わらわ)が基本的な質問を発し、伊藤仁斎が一つ一つ懇切丁寧に答えていくという形。当時の人々にとっては簡単な漢文で書かれてはいるものの、現在の我々にはむつかしい。


 しかも無数の引用があるから、いちいち原典に戻ってもとの意味を確認したり、言葉の意味を百パーセント理解できなければ前へ進んではいけないなどと、謹厳実直な強迫観念にとりつかれるともうイケナイ。この本は読めたものではない。飛ばし読みするくらいの度胸で読めばいい。


 仁斎は訓話型の読書など期待してはいない。自分の言いたいこと、要点、カンドコロを摑んでくれればもう充分と考えているのだ。現在『童子問』は岩波の古典大系と岩波文庫に収められているが、もちろん文庫がお買得。

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