読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

犬耳書店はRenta!へ統合いたします

(2021/11/26 追記)

犬耳書店の作品をRenta!に順次移行します。
詳しくはこちらでご確認いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

0
250
kiji
0
0
1180938
0
クルマ社会・7つの大罪
2
0
0
0
0
0
0
政治・社会
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
大罪その三 家族の孤族化

『クルマ社会・7つの大罪』
[著]増田悦佐 [発行]PHP研究所


読了目安時間:54分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ

そして、街が消え、結社の自由が爛熟する

 クルマ社会の罪状の中で生活感覚という点ではもっとも深刻な影響を及ぼしているのが、家族の枠の中に閉じこもって、隣近所とのやり取りがほとんどなくなってしまった「個」族が発生することだ。そしてやがて、個族は職場や学校や閉鎖的なクラブ以外ではあらゆる「団体生活」を避けようとする「孤」族になってしまう。そうすると、逆に家族の中だけでは満たされない社会生活に対する需要を満たそうとして、結社に参加する個人が増える。


 アメリカ人は偶然の出会いや交じり合いがニガ手

 かんたんに言うと、アメリカ人は不特定多数の人間が目的もなく、あるいは個人、個人でまったく違う目的や意図を持ってなんとなく寄り集まっているという情況に身を置くのがニガ手なのだ。だから、ありとあらゆる人間集団を、個人が自分の意志で選んだ結果としての集団に仕立て直そうとする。その典型的な例が、アメリカでは移民第一世代を除くと、大家族とか複合家族とも呼ばれる三世代が同居する家族が極端に少なく、自由意志で結婚した夫と妻と、その子供たちだけからなる核家族が圧倒的に多いという事実だろう。

 大家族には自由意志ではどうにもならない血縁の「縛り」が大きいのに対して、夫と妻を核とする家族は、自由意志で結びついた人間集団だからだ。そこに生まれた子どもたちは、もちろん自由意志でこの家族に参加したわけではない。だが、アメリカでは子どもは、まだ社会人として一人前と認められる前の「不完全」な付属品と考えられていて、ほぼ完全に夫婦に隷属した存在として育てられる。

 アメリカでは、あまりにも個人が自分のやりたいようにするために、そして行きたいところに行くために、エネルギーを使うことに文明全体が傾斜しすぎた。その結果、個人と共同体とのあいだのバランスが崩れるという現象が出てきた。その個人と共同体とのバランスの崩れは、あらゆるところで見て取れる。

 たとえば、それまではどんどん成長していた大都市が、徐々に衰退していく。あるいは、それまではとくに、たとえばヨーロッパ諸国に比べて、突出して多いわけでもなかった秘密結社に入る人の人数が激増するというような不思議なかたちでも表れてくる。

 もし、ジャパニーズ・ドリームと呼べるライフ・スタイルがあるとすれば、どちらかと言うと便利でさまざまな行動についての選択肢も多い都会のまん中で暮らしたいという傾向が顕著だろう。日本では、田舎に引っこんで静かにだれにも邪魔されない暮らしがしたいというのは、相当変わった少数派趣味という感じがする。おそらく多数派、とくに女性たちは、田舎での静かな暮らしはまっ平ごめんだというのが本音だろう。自分の子どもが通学した学校のPTAを通じてとか、あるいは隣近所でよく話をする奥さん連といったかたちで、強固な社会的ネットワークを作っているからだ。

 だから、夫は田舎に引っこみたいと言っても、妻が絶対それは嫌だと言う。自分が今まで作ってきた社会的ネットワークを全部そこに連れて行ってくれると言うのなら、行かないでもないだろうが。そのネットワークを残して、亭主と自分だけが田舎に引っこむなどというのは、まったく問題外だという人が多いはずだ。

 やはり、日本の奥さんたちの作っている社会的なネットワークは、カップル主体の欧米社会がすごく素晴らしいものだと言いふらされてきたために日本人が気づいていない日本社会の良さの一つだろう。日本の奥さん連は、自分たちの作った社会的な関係を大事にしている。そして、日本の場合とくに男性と女性の平均寿命にかなり大きな差があるので、旦那が亡くなってから、何年か奥さんがそのまま一人ないしは子どもたちと生きていくことになるときに、この社会的ネットワークが大きな支えになる。

 典型的なカップル社会である欧米では、およそ社会的行事はすべて、夫婦がカップルになって行くことになっている。独身者にとっては、社会的行事に招かれるたびにそれらしい同伴者を探して連れて行かなければならない、意外に不便なところなのだ。

 そして、アメリカ人が理想とする暮らし方は、郊外に広い庭のある家を持って、本当にお隣さん同士でも自動車で行き来したほうがはるかに便利というような、ポツン、ポツンと戸建の家が広がっている閑散とした住宅地だ。アメリカン・ドリームの行き着く先は「田舎で牧場でも持って」というようなことが言われる。


 索漠たる郊外に閉じこもるのが、成功したアメリカ家庭の理想

 アメリカの知識人で、仕事は金融業界でバリバリやっている人が「ついに理想の土地を見つけた」というので、どんな土地か聞いてみたことがある。彼は、「片側はあまり交通量が多くないけどちゃんとした幹線道路に出やすい道路で、反対側は沼沢地で最近環境保全地区に指定されたので、もう絶対これから先の開発はない。だから、今後は一生隣人の顔色をうかがう生活をしなくてすむ」と喜んでいた。

 都会で働いている人でさえ「もう絶対隣に家は建てられないからこそ、ここを買ったんだ」と言うほど、人里離れたところに住みながら、しかも現代文明の利器は全部ひと揃い持っていて、全然他人と接触しないで快適な暮らしができることが理想だと言う人が多い。他人との付き合いを絶ちたいという願望が非常に強いのだ。その孤立願望の強さは、ちょっと日本人には理解しがたいところがある。


   インターステイトハイウェイはプライバシーを可能にする。それだけではなく、アメリカ人が求めてやまないあるものを、積極的に助長する。それは孤立だ。……最近カリフォルニアからラスベガスに移住してきたコンサルタントは、自分の地所を囲む高い塀を誇らしげに眺めながら、こう言った。「もうだれも私がだれで、どんなことをしているか知らない。それがいいんだ。私も隣の人間がだれでどんなことをしているかなんて、知りたくない。自分がやりたいことができるように、放っておいてもらいたいだけさ」。ある種の人びとにとっては、コミュニティで共有する体験というのは、プラスではなくマイナスの価値を持つものらしい。
ルイス『Divided Highways』、二六六ページより拙訳


 アメリカで、とくに知的エリートが必死になって他人を出し抜いて、蹴落として出世して、ものすごい報酬を得てといった競争ばかり見ていると、人との付き合いを絶ちたい気持ちも分からないでもない。人が信用できなくなるというよりも、簡単に言えば、自分がこれだけあくせく人を蹴落とすために努力しているからには、他人もみんな自分と同じようにやっているだろう。そうすると、職場はそれでしかたないとして、家までそういう連中と顔を突き合わせるのは、もう勘弁してくれというような心境なのだろう。

 隠居生活というよりは、働いているうちからクルマで通える距離でさえあれば、仕事はオフィスでの生存競争丸出しがあっても、家に帰れば家族以外の人間の顔は見ないですむという暮らしが理想なのだろう。しかし、その家族は、町にもあまり出ていかない生活になるかもしれない。

 ただ、今のアメリカで中流以上のレベルの暮らしをしている人は、夫婦共働きが大部分なので、家族の中で少なくとも奥さんは出て行く。そして、子どもは、だいたい早いうちから寄宿制の私立学校に入れてしまう。それにしても、子どもはやはりかわいそうな気がする。寄宿制の学校へ入れっぱなしか、朝晩送り迎えをするか。子どもにあまり金をかけたくなかったら、スクールバスに乗せて、スクールバスで帰らせて、あとは家にこもりっきりになるのではないだろうか。

 これから先は、カップル主導型社会はますます維持するのがむずかしくなっていくだろう。まず、一生結婚しない人がどんどん増える。結婚しても、夫と妻とはまったく違う社会関係を形成するのがむしろふつうだ。その中で、いつまでもカップルにこだわっている社会は、それこそ自閉症的にカップルだけで鼻をつき合わせていて、家族以外の人間の顔は見ないところに引っこむことを理想とするようになってしまうかもしれない。そして、カップル間の密着度が高すぎることによって、適度な距離を置いてのつき合いなら目立たないアラも耐えられないほど気になって、離婚率もますます高くなっていくだろう。


 バラ色だったはずの未来学の描く未来は、あんがい暗かった

 一九六〇年代から七〇年代にかけて、未来学というお気楽でバラ色の未来予測をすることを主な役割とする学問領域が一世を風靡した。その未来学の中にちょっと毛色の変わった分野があって、「テクノロジー・アセスメント」と呼ばれていた。未来学一般と違うところは、科学技術の進歩がもたらす予想外のネガティブな結果も重視する、未来学本流からすれば鬼っ子のような分野だったことだ。

 当時、その名も『未来主義者(フューチャリスト)』と呼ばれたアメリカ未来学に関する雑誌が刊行されていた。本格的な学術誌ではなかったが、一般大衆に未来学の先端でどんな研究が行われているのかをやさしく解説する啓蒙誌で、今も人気のある雑誌で言えば『サイエンティフィック・アメリカン』とか、『ナショナル・ジオグラフィック』のような雑誌だった。『未来主義者』の一九七一年十二月号に、アメリカ科学財団の要職にあったジョゼフ・コーツという人が書いた、その名もずばり「テクノロジー・アセスメント」という論文が掲載されている。

 この論文には、アメリカ的な家族が孤立し、地域共同体が崩壊する過程の模式図が、まことに分りやすくズバッと書いてある。要旨は技術体系が変わったことによって、その変化にさらされるまではまったく予想していなかった副次的な変化が起きる。しかも、その副次的な変化は、二次的な影響、三次的な影響が累積していって、非常に大きな力で社会全体を変えてしまうということだ。

 たとえば自動車ができれば、個人がどこにでも行きやすくなるといった、第一次(ファースト・ラウンド)の効果はだれにでも分る。
この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:22781文字/本文:26880文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次