『悲鳴をあげる身体』
[著]鷲田清一
[発行]PHP研究所
なにか少年や少女の事件が起こるたびに、こころのケアやこころの教育がどうのといった声があがるが、わたしはすぐにはそういう発想がとれない。ちょっと乱暴かもしれないが、お箸をちゃんともてる、肘をついて食べない、顔をまっすぐに見て話す、脱いだ靴を揃えるなどということができていれば、あまり心配はないのではないかと思ってしまう。あまのじゃくなわけではないが、とりあえず、ごはんはかならずいっしょに食べるようにしたら、と言ってみたくなる。なにか身体が憶えた智恵や想像力、身体で学んだ判断を信じたいと思うのだ。
瀬戸内寂聴さんは、ある地方新聞に載った「躾はあって当然」という文章のなかで、こんなふうに書いていらっしゃった。
「私の父親は小学四年しか学歴のない職人だった。四、五歳の私が仕事場を通る時、つい道具のカンナやノミをまたいだら、だまってかね尺が飛んできて私の脚を払った。そうされて私は父の仕事は立派なものなのだなと思った」
からだで憶える規範や原理が確実にある、そんな時代があったのだ。いま、わたしたちのまわりでは世代の交替ということがうまくなりたたなくなっている。少なくともものの考えや感受性において世代差というのが見えにくくなった。いや、それよりも世代という観念じたいがうまくなりたたなくなったと言ったほうがいいかもしれない。現にわたし自身が世代などというものをあまり信じていない。
文化には、ひとの生を象る型というものがある。生に形をあたえる型というものがかならずあるはずだった。若いときの反撥や抵抗も、たいていはこの生の社会的な型に対してなされてきた。が、そういう型がいまはとても見えにくく、感じにくくなっているような気がする。生の基本、生のベーシックスにかぎって、こんなこと言わなくても分かると思ってたことが、じっさいには他人に伝わりにくくなっているような感触がある。
ラジオで聞いた、歌舞伎の師匠の発言はその点でとても印象的だった。外国人に歌舞伎の舞を教えるとき、言葉でなんでもかんでも訊いてきて授業にならないので、三日間は質問なし、ということで、とにかく型を覚えさせた。が、また四日目になると質問の渦……。が、これがこのごろは日本人にも起こっているという。ひとはもう、習うということを知らなくなっている、理屈で先に説明を訊いてくるというのだ。
なにか身体の深い能力、とりわけ身体に深く浸透している智恵や想像力、それが伝わらなくなっているのではないか。あるいは、そういう身体のセンスがうまくはたらかないような状況が現われてきているのではないか。
そんな身体からなにやら悲鳴のようなものが聞こえてくる気がする。身体への攻撃、それを当の身体を生きているそのひとがおこなう。化粧とか食事といった、本来ならひとを気分よくさせたり、癒したりする行為が、いまではじぶんへの、あるいはじぶんの身体への暴力として現象せざるをえなくなっているような状況がある。
たとえばピアシング。芹沢俊介は、ある新聞記事のなかで(『朝日新聞』一九九五年八月三十日夕刊)、「一つの穴(ピアス用の)を開けるたびごとに自我がころがり落ちてどんどん軽くなる」という男子の言葉を引き、次のようにのべている。
「気になることというのは、彼らが自己の体に負荷をかけ続けることで自我の脱落という感覚を手に入れている点である。自分を相手にしたこの取引において、彼らは自己の体への小さな暴力といっていいような無償の負荷──フィジカルな負荷──を自分から差し出すことによって、精神的な報酬を得ている。教団という契機を欠いているけれど、私にはこれが宗教に近い行為のように映るのである」、と。
あるいは摂食障害という、食による自己攻撃。
あるいは、生理がなくなって、なのにそれがうれしい、身軽になった感じという、二十代の女性の感覚。
あるいはセックス。〈食〉と同じように〈性〉という現象にも過敏になって、とりあえず早くやりすごしたいと思う思春期の女性が増えているという。快楽が負担になっているというか、傷つくのがいやなのか。その傷つきやすさは攻撃性に反転しもする。ムカツクというつぶやきは、語感からすればたしかに攻撃的であるが、じっさいにはなにか必死の護りの言葉のような感じがする。
このような身体状況がいったいなんなのか、それを理解したいというのが、本書の最大のモティーフである。したがってこれは、お行儀の本ではないし、作法の本でもない。むしろ現在の身体が抱え込んでいる痛みと希望を濃やかに描きだせれば、と願っている。