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酒場の社会学
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人文・科学
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はじめに

『酒場の社会学』
[著]高田公理 [発行]PHP研究所


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 すでに二十年ちかくも昔の話である。その頃のぼくは、数十人ばかりの酔っぱらいたちの〈束ね〉をしていた。〈束ね〉というと、なにか随分いばった、エラそうな役柄を演じていたような印象を呼び起こすかもしれない。けれども、ある小さなスナックの経営にたずさわっていた頃のことを思いかえしてみると、どうしてもぼく自身が、店にやってくる彼ら酔っぱらいたちの〈束ね〉としての役割を果たしていたと考えなければ説明できない出来事がいっぱいある。そして、どうやらそれは、ぼくの個人的な資質によるものではなくて、スナックに集まってくる酔っぱらいの客たちの集合と、酒場のマスターという職業に本来的にそなわっている属性に由来するものであったように思われる。こうした思い込みが、ぼくに本書を書かせた契機となっている。

 とはいえ、ぼくがマスターとしてその店を経営していたのは、なにも本書を書くためでなかったことはいうまでもない。本来それは、「酒を飲んで騒ぐこと」が大好きなぼく自身の資質をそこなうことなく、ひとりの生活者として暮らしていくのに必要な、生活の糧を得るための生業としての意味しか持っていなかった。

 ところが、あるとき、ぼくは短い文章を書く必要にせまられた。社会や文化とかかわる民間の研究所に就職するために、なにか〈論文のようなもの〉を提出しなければならなくなったのである。ためらうことなくぼくは、わが愛すべき酔っぱらいたちの行状の数かずを素材にして文章を書くことにした。

 それは、ぼくが彼らに限りない親近感を感じていただけでなく、「スナックのマスターとしての暮らしそのものを何らかの記録として残しておければいいな」という、ささやかな願いを持っていたからでもある。あるいは、その頃のぼくが、いっぽうで都市の猥雑と喧騒、混沌と無秩序の面白さにおおいに魅かれながら、他方では文化人類学や社会学という、当時はまだ一般に冒険的でありえた学、ないしは知のありかたに、ひそかに関心を寄せているディレッタントのひとりだったからでもあるだろう。つまり、ぼくはこう考えたのである。
――現代の日本社会の、巨大な都市の片隅にある〈スナック〉という名の酒場。そのちいさな空間において、同時代を呼吸している酔っぱらいの若者たちが演じているドラマ、あるいは彼ら相互の間に形成されるさまざまなタイプの人間関係のありようを、ぼく自身の記憶の再構成をとおして書き記してみよう。

 やがて、それがその後の数年をへて、ぼくの頭のなかで少しずつふくれあがっていき、一冊の本を満たすに必要な分量となってまとまったのが、この『酒場の社会学』だというわけである。

 たしかに、この書物に書き記されている事柄は、とるに足らないほど些細な、しかも、どちらかというとひたすらくだらない事実の集積である。だが、ひるがえって考えてみると、ぼくら現代日本人が日常生活のなかで出会うモノやコトのうち、とりたてて大騒ぎをするに足る重大な意味を持った事柄が、どれほどの比率で含まれているというのだろうか。もし、それに重大な意味がはらまれているとするなら、それは些細でくだらないモノやコトの集積の結果としてではないのか。

 あるいはまた、本書がその記述の対象として扱おうとする事柄は、しばしば〈方法〉の的確な斬新さによってではなく、〈対象〉のもつ値打ちやありがたみによって、みずからの権威を辛うじて保とうとしがちな現代日本の学術の守護者たちにとっては、鼻もちならないものである可能性が濃厚である。それをあえて出版しようというのは、ぼく自身が、たとえいかに些細でくだらない事実であろうとも、現代の人間的現実に深くかかわっているなら、それらの事実とそれに対する自らの反応を、いわば観照の対象とし続けることによって知的好奇心を満足させ、昇華したいと考えるタイプの人間だからである。

 その点で本書に記されている事柄は、二十年ちかく昔の同時代を共有した日本の若者をめぐる、まぎれもない事実に立脚している。同時に、けっして誰かがすでに打ちたてた既成の概念体系としての〈世界観の側〉からモノやコトを展望し、位置づけたものではない。したがってそれは、その限りにおいて現代社会とそれを準備してきた時代の流れに対する批評の立場に、きわめてささやかではあるが、なにごとかの示唆を提供することができるかもしれないと、ぼくは考えている。

 じっさい、そんな思いこみとは無関係であったにしろ、当時のぼくは、自分が経営していたスナックで、ひたすら大量の酒を飲んだ。あらためて思いかえしてみると、「毎晩、ウイスキーを一本」というペースである。それは、自分自身をも含めて、酔っぱらいというものを知ろうと思えば、酒とその酔いを知らなければならないからであった。酒とその酔いがもたらす心身の状態を知ろうと思えば、酒を飲んで酔っぱらわなければならないからでもあった。

 もっとも、あたかも目的合理的であるかのように聞こえる、こうした理由づけの根拠のなかばは、いまとなっては曖眛な(もや)のかなたに拡散せざるをえない。けれども、いずれにしろぼくは、その結果もたらされる酔眼朦朧をそれなりに懸命に咀嚼しながら、眼前で酔っぱらいたちが展開するドラマと、彼ら相互の間に形成される酔っぱらい同士の関係のありようを眺めつづけていたように思う。

 とはいえ無論のこと、ぼくは何もそれが、文化人類学でいうところの参与観察法を意図的に展開したことを意味する、などと言いたいのではない。すでに述べたように、ただぼくは、いかに酔っぱらいたちに楽しい時空間を提供するか、その結果、いかにして生活を成り立たせるのに必要な利益を手中におさめるか――そのことだけを考える一介のスナックのマスターとしてふるまっていたに過ぎない。

 だが、まさにそれはスナックを開業する以前、それまでの生計を支えるために〈ニワトリのヒナのセールスマン〉を職業としてきたぼく自身が、まったく新しい〈スナックのマスター〉という職業に適応していくプロセスでもあった。だとすれば、そのプロセスを正確に対象化して捉えなおすことは、あらたにぼくを迎えいれた「生活の鋳型」としての〈スナックのマスター〉という職業、スナックという空間、そこに流れる時間などの性質やしくみの一端を描きだすことを可能にしてくれるに違いない。つまり、「ミイラとりがミイラになる」という言いまわしがあるとすれば、ぼく自身が、そのミイラになった「なりかた」の過程をトレースすることによって、そのスナックに顕現していた、いわば「文化の形」を描きだせるのではないか、というわけである。

 それは最早、参与観察法と呼んで差しつかえない、ということになるのかも知れない。いやむしろ、観察者であるぼく自身が、同時に観察対象そのものでもあったという点では、いわゆる参与観察法の迂遠さをどこかで超克していたと考えることも不可能ではあるまい。

 しかも、ここでの観察の対象は酒を飲んだ酔っぱらいである。周知のように「酒はキチガイ水」などと呼ばれることからも分かるように、酒によって人間の心身は非日常的な状態にみちびかれる。とすれば、場合によると酒に酔った人間をつぶさに観察することは、彼らが日常生活を送っている社会や文化の、普段は隠されている特質を垣間みせてくれるかも知れない。その限りにおいて酒場は、時代の空気を捉える格好のフィールドであると考えることもまるっきり荒唐無稽だというわけではないのだ。

 ところが、である。ぼくの浅学の度合をさしひいたとしても、酔っぱらいたちのふるまい、彼らのつきあいかたなどを、社会や文化を考える立場から検討した書物は、ほとんど皆無に近いというのが現状であるように見受けられる。

 もちろん、改めて考えてみれば確かに、それは無理のない話でもあるのだろう。というのも、そんな書物を書こうと思えば、人は夜毎、いずれかの盛り場のいずれかの酒場へ出かけていって、じっと酔っぱらいたちを観察しなければならなくなる。そんなことをすれば、世の多くの研究者にとって何よりも大切な(ということになっている)「文献を読む」時間がなくなる。それに膵臓と肝臓の健康状態があやしくなり、酒場の支払いがかさんで生計が危機に瀕してしまう。しかも、いささか皮肉な見方をすれば、過剰に情報があふれ、極度に多忙で、他人との葛藤の種が絶えない、ストレスのおおい現代社会のなかで、仕事からのがれ、くつろぎ、快楽を享受することのできる数すくない時空間としての酒場と、そこで酒を飲むひとときの楽しみが奪われてしまう。ふつう人間というものは、自分の楽しみだけは、仕事の対象として無残に打ちくだいてしまうことなく、そっと大事に取っておきたいものであるようなのだ。

 という意味でぼくは、しばしば文化人類学者たちが得意げに語るように、まさに「フィールドに恵まれていた」のかもしれない。なにしろ、日常生活の現場そのものを調査フィールドであるかのように見立てることができたのだから……。

 しかしながら、ひるがえって考えてみれば、この程度のフィールドは日本国内の、とりわけ都市のなかには無尽蔵にある。いささか唐突だが、なにしろ日本には一億二千万人の人間が住んでいる。この数字がどんな意味を持っているのか。

 驚いてはいけない。例の平凡社の全十五巻、総ページ数二万ページにちかい『大百科事典』(一九八五年版)のなかに印刷されている文字の総数ですら、七千万字程度にしか過ぎないのである。それに比べると日本の総人口はおよそ、その一・七倍にも及ぶ。ほとんどの日本人は、そのうちのわずか三五六四人の人とさえ、知りあいですらないだろう。よしんば友人・知人の数が三五六四人に達する人物がいたとしても、その数の文字は『大百科事典』のわずか一ページを満たすのみなのである。

 だから、現に日本社会で生活しているぼくらが、その全体の一小部分を切りとって、それにつぶさな観察をほどこしてみるという根気さえ持てば、そこから見つけることのできる極めて多くの未知な事柄が、人間や社会や文化をめぐるぼくらの好奇心を満たしてくれる可能性は決して小さなものではない。そのさい、対象となるのは酒場だけとは限るまい。職場やサークル、学校など、いわゆるマイクロ・ソシオロジー、もしくは「都市の人類学」のフィールドは、身近なところにいくらでも広がっている。

 ただし、そんな試みにとってどうしても必要なことがいくつかあるように思われる。まず自分自身をあえて現実の日本社会を訪れた〈ストレンジャー〉と見たてること、そして自分自身が観察の対象として選択した〈世界〉に適応していく現実のプロセスとそれが意味するところを、率直な観察眼とごくありふれた常識、そして何よりも多少の酩酊にゆらぐ薄明の知性をとおして解読していくこと、などであろう。つねに〈ゆらぎ〉をはらまざるをえない現実を解読しようとするなら、たんに酒によるものとはかぎらないものの、あまりに澄明に覚醒した精神よりも、かるい酩酊のただなかにある精神のほうが馴染みやすいという気がしないでもないからである。

 というような、エラそうな口上を述べたてたところで、何はともあれ、かつてぼくがマスターとして酔っぱらいの客たちを〈束ね〉ていた、いささかキチガイじみた酒場、〈スナック・M〉という名の酩酊の世界へ、読者諸氏をご案内することにしよう。

かつては、もし俺の記憶が確かならば、俺の生活は宴であった。誰の心も開き、酒という酒はことごとく流れ出た宴であった。アルチュール・ランボー 
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