『心が折れない子が育つ こども論語の言葉』
[著]齋藤孝
[発行]PHP研究所
1 髪の毛ばかり気にする人は、人間性も薄っぺら
原文 巧言令色、鮮矣仁(学而第一─3)
はるか「お母さん、はるかをどうしてもっと美人に生んでくれなかったの? はるかがリサちゃんみたいに美人だったら、よかったのに」
母 「はるかだってかわいいわよ。それにはるかは、弱い子の味方をしたり、お母さんを手伝ってくれたり、とっても思いやりがある素敵な子よ」
はるか「でも美人のほうがいい」
母 「じゃあ、はるかは顔だけイケメンで中身は全然ない男の子がいいと思う? 頭はからっぽで、いつもヘアスタイルばかりいじってるおバカな男の子がいいかしら?」
はるか「そんなことないけど」
母 「孔子先生もこう言っているの。
巧言令色、鮮なし仁
口が上手で、外見がいい人は、たいてい人間的に徳がないものだよ、という意味よ。人を見た目で選ぶと失敗するの。はるかも外見ばかり気にしないで、中身を磨くようにしようね」
解説
いまの時代は外見や第一印象がひじょうに重視されています。男性でさえ、イケメンブームで、トークがうまく、顔のいい男性が当たり前のようにモテる時代になっています。大学でも男子学生がヘアスタイルやファッションばかり気にしています。その分、本を読まなくなったので、人間的に浅くなった気がします。
孔子はいまから二五〇〇年も前に、「髪の毛ばかり気にしたり、眉毛を一生懸命整えているような人は、人間性も薄っぺらです」と予言していたかのようです。
〈巧言〉は口がペラペラとうまいことを言いますが、必ずしもトークが上手ではなくてもいい、と孔子は言っています。もっと大事なのは、人を思いやる真心です。
孔子の言う「仁」とは、優しさや真心のことです。口がうまくて、容姿ばかり気にしている人は、外見に気を取られてしまうので、真心や優しさに欠けていると孔子は指摘しています。
〈巧言令色、鮮なし仁〉をどういうときに使うのかというと、ペラペラと口先だけで言いわけをしているようなときがいいでしょう。子どもが友だちとの約束を破ったときに「急に用事を言いつけられて」というような言いわけをして、自分を正当化していたら、〈巧言令色、鮮なし仁〉とピシッと言いましょう。
〈令色〉は顔をいろいろ整えることです。子どもが本を全然読まずに、鏡ばかり見ているようなときも、「そこをめざしてもダメなんだ」と教える必要があります。中身がない人は中身がない人としかつきあえません。うわべばかり取り繕っても意味はありません。
折にふれて、〈鮮なし仁〉とすかさず言うことで、子どもの心に「仁」という言葉が焼きつきます。「仁」の意味がよくわからなくても、「きっと大事なものなのだろうな」という漠然とした感覚が入ってきます。それが大切です。人は外見ではなく中身、ということが「仁」を通してしっかり身につけば、大人になってから、いい加減な人にだまされるのも防げるのではないでしょうか。
同じようなものに次の言葉があります。
悪衣悪食を恥ずる者は、未だ与に議るに足らず(「而恥悪衣悪食者、未足与議也」里仁第四─9)
粗末な服を着て、粗末な食事をしているからといって、恥ずかしがることはない。それを恥ずかしがるのはまだともに道を語るに足りない、という意味です。ちゃんとした志や目標があれば、外見など関係ない。心の内側に宝物を増やしていくことが大切だということです。