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はじめてのノモンハン事件
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歴史
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はじめに――日本軍とソ連軍はなぜ激突したのか?

『はじめてのノモンハン事件』
[著]森山康平 [発行]PHP研究所


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 ノモンハン事件は、一九三九年(昭和十四)五月から八月に、満州(まんしゆう)国とモンゴル人民共和国(以下、モンゴルと表記)の国境をめぐって戦われた、日本軍とソ連軍の戦争である。

 満州国は形式上は独立国であったが、だれ一人疑う者がいない日本の植民地であり、だからこそ日本軍が「国防」にあたっていた。満州国軍という部隊もあったが、形だけの部隊であり、日本軍が指揮していたのだ。

 一方、モンゴルも独立国ではあったが、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)の完全な衛星国だった。衛星国とは「植民地」にも等しい国家で、内政も外交も軍事もほとんどソ連に操縦される国家である。ソ連は第二次世界大戦後、東欧や中央アジアに数多くの衛星国をつくったが、ノモンハン事件当時は、モンゴルが唯一の衛星国だった。

 もちろん、満州国もソ連も今はない。モンゴル人民共和国も現在では「人民」がとれて、モンゴル共和国である。

 日本が中国東北地方を支配するために便宜上、誕生させた満州国は、太平洋戦争に負けた直後に中国へ戻った。ソ連は内戦が起こったわけでもないのに、一九九一年に内部崩壊し、その中心となっていた領域は単なるロシア(ロシア連邦)に戻った。

 本書の舞台となるノモンハンは、人が住んでいる町でもなければ村でもない。目印となる大きな建物が建っているわけでもない。

 それでも地名がつけられたことには理由があるが、ここではノモンハンがハイラル(海拉爾。今の内モンゴル自治区東部の都市)から南南西約二〇〇キロの地点にあることを、念頭に置いておくと分かりやすい。そのハイラルは、西のソ連との国境の町・満州里(マンチユーリ)から東南東約二〇〇キロの地点である。


 さてモンゴルという国家は、ソ連の誕生をきっかけにして生まれた。

 もともとモンゴル人が住んでいた広大な地域は、(しん)朝の時代にその領土へと組みこまれ、清朝が倒れて中華民国となってからもその支配下にあった。

 ところが、清朝が倒れた(一九一一年、辛亥(しんがい)革命)ことをきっかけにして、中国から独立しようという機運が高まったのだ。

 数年後にはロシア革命が起こり(一九一七年)、その革命勢力はモンゴルにも浸透した。中国から独立するには、その勢力と手を組むしかなかったモンゴルは一九二四年、ソ連の後押しで人民共和国として発足したのである。

 モンゴル人の住んでいる地域は広い。人民共和国として誕生したのは、ゴビ砂漠を(へだ)てて北側の地域である。南側は依然として、中国領土としてとどまらざるを得なかった。

 当時の日本は、独立したモンゴルを以前からの習慣で外蒙(がいもう)と呼び、中国領土としてとどまった地域を内蒙(ないもう)というのが一般的だった。内蒙は、清朝末期から察哈爾(チヤハル)省、綏遠(すいえん)省などと命名されていたが、ノモンハン事件当時は日本の支配下にあった。

 そういうわけでノモンハン事件は、満州国とモンゴルの国境紛争に(たん)を発した大きな戦争にもかかわらず、実際に戦ったのは日本軍、もっとくわしくいえば、満州国に駐屯(ちゆうとん)していた関東軍とソ連軍との戦争だったのである。

 もちろんモンゴル軍も戦ったが、戦死者は一六五人とも、戦死者二三七人・行方不明三二人ともいわれている(田中克彦『ノモンハン戦争』)。その数の少なさは、対するソ連軍の戦死・行方不明が七九七四人(中山隆志『関東軍』)と比べてみると、圧倒的な差である。

 要するに、この戦争はモンゴル人の戦争ではなく、ソ連の戦争であった。

 それにうかうかと乗って「大戦争」にまでもっていったのは、明らかに関東軍の失態だった。関東軍はこの戦争で、おそらく八七四一人以上の戦死及び不明者(前出、中山『関東軍』)を出したのである。

 ノモンハン事件は、日本が満州国をつくった年(一九三二年)から七年目に起こった。そして、日本が新たに中国侵略を始めた年(一九三七年)から二年目に起こった。

 満州事変から満州国建設にいたる過程も中国侵略そのものであるが、それ以上の規模の中国侵略戦争、すなわち当時の呼称でいえば「支那(しな)事変」を進めていた。支那事変は今日でいうところの日中戦争であり、それは中国全土の制圧を目指していたのだった。

 ノモンハンで関東軍とソ連軍が戦っていたころは、すでに武漢三鎮(ぶかんさんちん)武昌(ぶしよう)漢口(かんこう)漢陽(かんよう)の三都市。鎮は都市の意味。現在の武漢市)を占領していた(一九三八年十月)。それに日本軍が投入した総兵力は、二五万人以上という大規模なものであった。

 中国各地を攻略していた日本は、強敵であるソ連とは戦争をしたくなかった。

 中国軍は弱く、日本軍の敵ではないという(あなど)りの気分がある一方で、ソ連軍は近代化されていて強いという認識は当然あったのである。だからソ連と全面戦争になったら、日本が負けるかもしれないというおびえもあった。

 モンゴルとの国境線が数キロや数十キロ動いたところで、満州国そのものが脅かされるものではない。何といっても満州国は広い。その面積は現在の日本の三・五倍ほどもあった。しかもノモンハンという地域に、人はまったく住んでいなかった。今も住んでいない。

 満州国を維持していくうえで、国境線が多少動いたところで、大勢に影響はない――。少なくとも、日本陸軍の総元締めである参謀本部はそう考えていた。

 ところが、そう考えなかったのが関東軍であった。関東軍はもちろん、参謀本部の戦略に(のつと)ってその統制を受ける立場だったが、関東軍には関東軍のやり方があるのだから、あまりくちばしを入れないでほしい、という立場をとっていた。

 南満州鉄道を自ら爆破して戦争のきっかけをつかみ、自作自演の満州事変を起こし(一九三一年九月十八日勃発(ぼつぱつ))、満州国という国家を無理やりつくりあげた歴史がある関東軍は、軍中央や政府の意向を無視して突き進むという()しき気風を、まだ持っていたのである。

 そういう次第で、ノモンハンという辺境の地域で起こった小さな国境紛争は、思いがけなく「日ソ戦争」と呼んでも少しもおかしくない大規模な戦闘へと突き進んでいき、多くの犠牲者を生んだのだった。

 あの時代の愚かな戦争における、もっとも愚かで「(あわ)れなまでに勇敢を強要された」(五味川純平『ノモンハン』)兵士たちの、多くの痛ましい犠牲を伴ったのがノモンハン事件なのである。

 その実情を知ることは、現在においてもいささかも意義を失っていない。


 二〇一二年一月
森山康平 
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