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日本史の闇「あの暗殺事件」の意外な真相
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歴史
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三一〇年頃? 大山守皇子謀殺事件

『日本史の闇「あの暗殺事件」の意外な真相』
[著]日本博学倶楽部 [発行]PHP研究所


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仁政で知られた天皇の即位前に流れた天皇家の血


 大阪・(さかい)市に残された大山(だいせん)古墳は、仁徳(にんとく)天皇陵といわれている。宮から国を眺めた際、家々の(かまど)から煙が立ち昇っていないのを見て、租税を三年間免除した聖帝として名高い。

 この仁徳天皇は、皇子時代、大鷦鷯(おおさざき)と呼ばれていた。第一五代応神(おうじん)天皇の後継者となった彼だが、その即位までには兄弟間の愛憎による権力争いで血が流されたことが『日本書紀』に書き残されている。

 それによると、応神天皇は八人の女性と結婚し、男女二〇人の子をもうけたとある。なかでも大山守(おおやまもり)、大鷦鷯、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が有力であった。天皇は末弟の菟道稚郎子を寵愛し、生前から大山守、大鷦鷯のふたりの兄をさしおいて、菟道稚郎子を皇太子にしていた。

 応神天皇が亡くなると、菟道稚郎子は、自分より年長で人望もある大鷦鷯に皇位を継ぐように勧めた。しかし大鷦鷯は、父帝の決めたことに背くことはできないと、これを断り、ふたりの譲り合いが続いた。

 その間隙を縫って欲を出したのが、長兄の大山守だった。彼は菟道稚郎子を暗殺して皇位に就こうと挙兵したのである。ところが、大鷦鷯がいちはやくこれを知り、菟道稚郎子に知らせた。

 大山守が宇治川から攻めてくることを知った菟道稚郎子は、船頭に扮して待ち伏せた。何も知らない大山守が乗り込んだ船が、川の中ほどまで差し掛かった頃、菟道稚郎子は船を転覆させる。川に転落した大山守は、必死に泳いで岸に向かおうとするが、岸では菟道稚郎子の軍が弓矢を構えて待ち受けていた。やがて大山守は力尽き、岸に上がれないまま川の中へと消えていった。

 こうして共通の敵を取り除いた大鷦鷯、菟道稚郎子兄弟だったが、菟道稚郎子はあくまで皇位継承を固辞し続けた。だが大鷦鷯も父帝の意思を守るべく皇位に就くことはない。

 そして、ついに菟道稚郎子は自ら命を絶ってしまう。『日本書紀』は、この結末を大鷦鷯に天皇の座を譲ろうとしたものだと、兄弟愛の深さを記している。

 こうして、二皇子の犠牲のうえに天皇になったのが、大鷦鷯、『日本書紀』の記す仁徳天皇である。

 ただし、一説によると、大鷦鷯が菟道稚郎子を呪詛(じゆそ)したとか、毒殺したという話も残されている。

 即位までに起こった出来事を心に深く刻んでいた仁徳天皇は、在位中は仁政に努めたという。まず難波に都を造営したものの、冒頭の逸話のように、竈の煙の少なさから民衆の困窮を悟り、三年間の税徴収を中止した。三年後、再び天皇が宮から国を眺めると、たくさんの煙が立ち昇っていたという。この仁政のために国力が高まると、仁徳天皇は排水路や堤防を築くなど土木工事にも力を入れた。

 自らの宮殿はなんの飾り気もない住まいで、屋根の茅すら切りそろえなかったと伝えられる。それは自分のために人民が時間を取られて耕作や機織りができなくなるのを嫌ったためという。着物や履物も破れるまで用い、食べ物も質素なものに甘んじたという彼の治世下は、その始まりの血塗られた闘争からは考えられないほど平穏なものだった。
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