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日本史・ライバルたちの「意外な結末」 宿敵・政敵・好敵手たちの知られざる「その後」
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歴史
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織田信長VS本願寺顕如

『日本史・ライバルたちの「意外な結末」 宿敵・政敵・好敵手たちの知られざる「その後」』
[著]日本博学倶楽部 [発行]PHP研究所


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巨大勢力をまとめることができたのは英雄だから!?
――死後分裂した勢力の長たち



 戦国時代の武将のなかでも一頭地を抜く存在である織田信長。天下統一の野望のため、名将とうたわれた武田信玄や上杉謙信らとも敵対した。しかし信長にとって最大、最強の敵ともいえるのは、大名ではなく寺院、石山本願寺(いしやまほんがんじ)である。

 石山本願寺は一向宗(いつこうしゆう)の総本山。一向宗は浄土真宗の別名で、戦国時代に東北から九州にまで勢力を拡大し、当時の諸大名にも劣らぬ組織力と軍事力を持っていた。事実、一揆衆が大名を滅ぼし、一国の支配を行なうこともあった。

 一五六八(永禄十一)年、足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて入京した信長が本願寺に対し軍用金の供出を求めた。二年後には、さらに寺地の明け渡しを要求する。こうした信長の要求に対し、本願寺の門主・顕如(けんによ)は信長と刀を交えることを決意した。

 石山合戦と総称される一向宗と信長の戦いはこののち十一年間もの長きにわたって繰り広げられるが、一五八〇(天正八)年、石山本願寺が朝廷を介した講和に応じて、顕如らが石山本願寺のあった大坂から退去することを承諾、両者の争いは終結をみた。


本願寺は和議をめぐり親子が対立、織田家も信長の死で暗雲が


 信長にとって、一勢力に十一年も総力を投入したうえに、完全に攻略できなかったのは石山本願寺だけだった。とはいえ、広範囲の地域に影響力を持っていたこの集団を屈服させた今、信長を脅かす勢力はなくなった。

 この合戦の和睦(わぼく)は、事実上は本願寺の降伏といってもよい。一五八〇(天正八)年(うるう)三月に成立した和睦条件のなかには、七月までに顕如ら石山本願寺が大坂を退去することが記されていた。

 この内容を巡り、門主の顕如と息子教如(きようによ)は対立している。顕如の後継者として新門主となった教如は血気盛んな二十代で、みすみす城を明け渡すことに反対したのだ。息子が再び籠城(ろうじよう)するために雑賀(さいか)(現・和歌山県)の宗徒を召集しようとすることに対し、顕如はその命令を差し止め、自分の命じた者以外に来ることを許さなかった。

 このことで一時顕如・教如親子は父と子の関係を絶っている。その後、父子は和解するが、一度できた溝はなかなか消えなかった。信長との長きにわたる争いに疲れ果てた顕如にとって、事実上の敗北に加え、子どもとの確執はあまりにつらい結末だったろう。

 一方、信長は最大の宿敵との戦いを終えた余韻に浸る余裕があったようだ。その後、信長がしばらく遊興にふけった様子が『信長公記』に記されていることからも見てとれる。一五八一(天正九)年には、京で馬揃えを行なった。馬揃えとは、軍兵を集めてその武威を外部に誇示したり、軍団の士気を高めるためのもの。信長の行なったものは天皇や公家も見物するなかで、織田軍団の精鋭が一堂に会する大規模なものだったと伝えられている。

 信長は着実に天下統一に向かっていた。一五八二(天正十)年、武田家を滅ぼすと、残る強敵は中国地方の毛利輝元(もうりてるもと)にしぼられてくる。信長は中国・四国の遠征で陣頭指揮を取るために淡路島に向かう途中立ち寄った京都で、重臣明智光秀による本能寺の変にあった。不意をつかれた信長はあえなく自害。当主・信長のあまりにも急な死によって、織田家の運命に暗い影がしのびよることとなる。

織田家も本願寺も分裂、二つの巨大勢力は消失!


 羽柴秀吉が謀反人である光秀を討ち取ったあと、秀吉ら織田家の重臣によって会議が開かれた。世にいう清洲(きよす)会議である。この席上で、信長の遺領が分配されることになった。

 信長の子のうち、長男信忠(のぶただ)は光秀軍の襲撃によって戦死していた。会議では、信忠の遺児三法師(さんほうし)が家督を継ぐこと、信長の遺領は、息子たちと多数の家臣に分配されることが決められた。その結果、二男の信雄(のぶかつ)には尾張と伊勢、三男の信孝(のぶたか)には美濃が与えられている。

 信長亡きあと、秀吉の台頭などもあり、織田家の絶大な力は相対的に低下していく。二人の兄弟も不仲で、信雄は信孝に対してライバル心を燃やしていた。その心理を秀吉に見透かされた信雄は、天下統一の機会を虎視眈々と狙っていた秀吉に利用される。織田信長の跡を受けて天下取りに乗り出したい秀吉にとって、信孝は目の上のこぶだった。信雄は秀吉に味方をしていたが、信孝は柴田勝家と手を結んで秀吉との敵対姿勢をあらわしたこともある男だったからだ。

 そのため、秀吉は信雄が信孝と戦うように仕向け、自らの手を汚すことなく旧主の子を死に追いやることに成功する。信雄と信孝の争いが、天下統一を目前にしていた織田家の未来を完全につぶしてしまった。

 結局、信長の血を引く息子たちは、家中の統制を維持し、父の野望であった織田家による天下統一を成し遂げることができなかった。ただ、信長の配下にあった秀吉が、その後天下統一を果たしたことを考えると、才能あふれる家臣に支えられた織田軍を取りまとめることは、時代の風雲児であった信長にしかできないことだったのかもしれない。

 また、そのライバルであった本願寺も大坂退去後に新たな道を開いたかにみえたが、顕如と対立した教如の立場は微妙であり続けた。父亡きあと、教如は弟に門主の座を譲ると、そののち徳川家康に願い出て京都七条烏丸に寺をつくり、東本願寺とした。ここに本願寺は分裂し、東本願寺と西本願寺が生じるのである。すさまじい武力をもって信長を悩ませた一向宗の総本山・本願寺もまた、織田家と同様に分裂してしまったのだ。
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