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天空の帝国インカ その謎に挑む
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歴史
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第4章 開花した農耕文化

『天空の帝国インカ その謎に挑む』
[著]山本紀夫 [発行]PHP研究所


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スペイン人を驚嘆させたもの

 ペルーの海岸地帯の大部分は砂漠である。それは何度も述べたが、そんな砂漠地帯のなかでも作物が栽培されていた。ほかでもない、灌漑のおかげである。この灌漑の技術そのものは、インカからさかのぼること約一〇〇〇年も前のモチェやナスカでも見られたことは指摘したが、それがインカ時代にはかなりの発展をとげていたのであろう。その灌漑技術に驚いているスペイン人が少なくないのである。たとえば、サンチョは次のように述べている。

「トゥンベスからチンチャにかけての一帯は、海岸の幅が一〇レグア(一レグアは約五・六キロメートル)前後である。この地域は平坦な砂漠地帯で、雨量もわずかで、草も育たないのに、トウモロコシや果物が豊かに実る。それは、山岳地帯から下る川の水を使って灌漑耕作がおこなわれているからである」[Sancho 1968(1534)]。


 この灌漑は、スペイン人が南アメリカに最初に建設した都市であるリマをもうるおしていた。リマも降水量の乏しい砂漠地帯に位置しているにもかかわらず、そこにスペイン人たちが彼らの町を築いたのは立派な灌漑のおかげだったのであろう。この点についてムルーアは十六世紀に次のように述べている。

「リマック川からは、川とよんでもよさそうなほど幅の広い用水路が引かれている。その用水路は二本にわかれ、広大なリマの谷全体にゆきわたっている。そこが雨量に乏しく、土地を湿らすには不十分だからである。(中略)このように川から二方向に引かれる水によって、小麦やトウモロコシの畑、そして果樹園などが四レグア以上にわたって広がっている」[Mura 1962(1590)]。


 また、シエサ・デ・レオンもペルーの海岸地帯で「信じがたい場所にも灌漑水路が引かれている」と驚き、それにつづけて次のように述べている。

「……そこでは雨が降らない。しかし、山地から流れ下り、南の海(太平洋)に流れこむ川の水を、灌漑によって利用するのである。これらの川の流域に、インディオたちはトウモロコシを播いて、年に二度収穫する。生産量は豊かである。地方によってはユカ[マニオク]の根を栽培し、これはトウモロコシがないとき飲み物やパンを作るために利用される。甘いサツマイモがたくさんできるが、その味はほとんどクリのようである。またジャガイモもとれ、多くのマメ類や、その他の美味な根菜もある」[シエサ 二〇〇七(一五五三)]。


 このように何人ものスペイン人が灌漑について言及し、そこでは雨量が乏しいにもかかわらず、立派に作物が栽培されていることを強調している。ところで、これらのスペイン人たちの記録を見ていると、海岸地帯ではトウモロコシだけでなく、さまざまな作物が栽培されていたことがわかる。灌漑というとアンデスでは、すぐにトウモロコシ栽培とむすびつけられるが、実際は必ずしもそうではなく、さまざまな作物が灌漑によって栽培されていたのである。

 この点で、先のシエサの報告はとくに興味深い。トウモロコシだけでなく、マニオクやサツマイモなどのイモ類も栽培されていたと報告しているからである。また、トウモロコシが不足するとき、それを補う作物がマニオクであった点もおもしろい。ペルーの海岸地帯ではトウモロコシとマニオクが二つの重要な作物であったことを物語るからである。また、トウモロコシが不足するとき、マニオクが「飲み物をつくるのに役立つ」と述べているが、この飲み物とは酒であった可能性が高い。もしそうであれば、インカ時代、ペルーの海岸地帯ではトウモロコシとともにマニオクの酒も飲んでいたことになるのである。

 もう一つ、シエサは注目すべきことを報告している。ペルーの海岸地帯で「何種類ものジャガイモ」が栽培されていたというのである。このシエサの報告で、インカ時代にはジャガイモ栽培はアンデス高地だけでなく、海岸地帯にまで拡大していたことがわかるのである。

美しい耕地

 クロニカを見ていると、初めてインカの領土に入ったスペイン人たちを驚嘆させた農耕技術が少なくとももうひとつあった。それは階段耕作である。灌漑は、海岸地帯で古くからおこなわれていたが、階段耕作は山岳地帯に限られ、山岳地帯に多い斜面を階段状にして、そこを耕地とする方法である。階段耕地そのものは世界各地で見られるが、アンデスのそれは精巧につくられ、しかも大規模なものだった。そのため、この階段耕地について記録を残しているスペイン人が少なくない。

 たとえば、マティエンソは十六世紀半ばに次のように述べている。

「インガ(インカ王)はローマ人の建設規模をしのぐ用水路や石畳(の道路)をつくらせたが、標高の高い山岳地帯の石や岩だらけの斜面も播種できるように石を使って階段耕地をつくらせた。こうして、平野部だけではなく、標高の高いところも、播種が可能になり、実り豊かな土地になる」[Matienzo 1967 (1567)]。


 征服者のフランシスコ・ピサロとともに、インカの首都であるクスコに一五五三年五月、到着した彼の従弟のペドロ・ピサロもクスコ近くの階段耕地について次のように書き記している。

「すべての階段畑は、崩れ落ちるおそれのある部分が石で囲ってあり、その高さは一エスタード[約一・九メートル]、またはそれ前後である。そのあるものには、一ブラサ(約一・六七メートル)またはそれ以下の石が間隙をおいて、階段のように配置され、石壁に打ち込まれている。そこを伝って上り降りするのである。これらの階段畑はみなこのようにできている。そこにトウモロコシを播くから、雨が畑をこわさないように、平らにならされた土のおもてを保とうとして、そのように石で土止めをしたのである」[ピサロ 一九八四(一五七一)]。


 じつは、このようなインカ時代の階段耕地は現在もクスコ周辺のあちこちで見られる。そして、その階段耕地は大きな石をきちんと積み上げ、きれいな等高線を描いているものが多い(写真15)。この点については次のコボの記録に詳しい。いささか長くなるが、インカ時代の階段耕地に関するほとんど唯一の詳細な記録なので以下に引用しておく。



「インディオたちは、可能であれば、雨量の少ない場所のみならず、十分に雨の降るところでも畑に灌漑を施そうとする。このためにたいへんな労力と技術を要する二つの事柄をおこなう。まず、急勾配の土地をならし、灌漑や耕作をおこないやすくする。そうすることによって、ふだんはまったく不毛で役に立たない多くの土地を利用するためである。土地をならす一方で彼らがパタとよぶ段々畑を山の斜面につくる。耕作地をかこうために間隔をおいて同じ高さの石壁を対にして立てる。段々畑の幅は、斜面の勾配の大きさに左右される。勾配の小さい斜面では、五〇、一〇〇、二〇〇フィートあるいはそれ以上の幅のある段々畑が見られる。勾配の大きい斜面では、三、四フィートしか幅のないものもあり、ひじょうに狭く、階段のようである。間隔をおいて立てられた壁は、最高で一、二エスタードの高さである。壁にはピエドラ・セカ[粗石積みに用いる石]が使われ、なかにはきわめて入念に加工されているものも見られ、四角でもないのに互いにぴったりと組み合わされている。これはクスコ周辺において現在も数多く残っている段々畑に見られるとおりである。インディオはこのようなやり方なくしては、とうてい耕作できないような、山のかなり高く、険しいところまで播種をおこなう。今日、遠くから眺めると、上から下まで段でおおいつくされているように見える。彼らは、川の水を利用し、行きわたるところすべてに灌漑を施していた」[Cobo 1956(1653)]。


 このコボの記録で注意すべきことは、階段耕地に灌漑が施されていることである。コボが述べるような入念につくられた階段耕地は、山岳地域で灌漑をおこなう上で重要な役割を果たしたと考えられる。ペドロ・ピサロも指摘しているように、アンデスに多い斜面にあるような耕地では、そこに水を引くことによって土壌が浸食され、とくに肥沃な表面が流出して河川に流れ込んでしまうからである。この問題を解決するためのひとつの方策として考えられたのが、階段耕地の建設であった。

 ちなみに、この水路を引くことに対してインカの人たちは、尋常ならざるほどの情熱を注いだようである。インカ時代の建築物は巨石を使って精巧につくられたことで知られるが、この技術が水路づくりにも生かされ、しばしば水路としては驚くほど精巧に、また美しくつくられているのである(写真16)。



「やせ地を見事に管理」

 さて、それでは、このように立派な階段耕地でインカ時代の人びとは何を栽培していたのだろうか。ピサロがクスコ近くの畑で見たように、それは主としてトウモロコシだったようである。この点についてはインカ・ガルシラーソの記録が参考になる。インカ・ガルシラーソはスペイン人ではなく、最後のインカ皇女とスペイン人のあいだに生まれた人物であった。ケチュア語も解し、アンデスの伝統文化にも詳しい人物である。

 インカ・ガルシラーソは「水が引かれない限りトウモロコシの種が播かれることはなかった」と述べた上で、以下のようにつづける。

「さて、水路が開かれると、今度は土地が平らにならされ、さらに水がうまく行きわたるように、土地が四角く区切られた。丘陵地や斜面には、それが肥沃な土地であれば、今日クスコをはじめとしてペルー全土に見られるような段々畑が造られた」[インカ・ガルシラーソ 一九八五(一六〇九)](図11)。




 ただし、インカ帝国の耕地がすべてトウモロコシ用だったわけではなく、もちろんジャガイモなどのイモ類を栽培している耕地もあった。その点についてインカ・ガルシラーソは次のように述べている。

「灌漑されたトウモロコシ畑の他に、水の引かれていない耕地もまた分配され、そこでは乾地農法によって、別の穀物や野菜、例えば、パパ(ジャガイモ)、オカ、アニュス(マシュア)と呼ばれる、非常に重要な作物の種が播かれた」[前掲書]。


 つまり、インカ・ガルシラーソによれば、インカ時代の耕地には二種類あった。すなわち、灌漑を施した畑と無灌漑の畑である。そして、基本的に前者はトウモロコシ用の耕地であり、後者はジャガイモやオカ、マシュアなどのイモ類の耕地であった。

 こうしてクロニカを追ってゆくと、トウモロコシとジャガイモなどのイモ類の栽培にはさまざまな違いがあったようである。
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