『暗殺の世界史 シーザー、坂本龍馬からケネディ、朴正熙まで』
[著]大澤正道
[発行]PHP研究所
──反乱決起の「二・二六事件」
〈昭和十一年(一九三六)二月二十六日〉
昭和天皇が反乱軍の“討伐”を急いだ理由
二・二六事件で、反乱部隊の鎮圧を最も強硬に主張したのが昭和天皇だったことは、今ではよく知られている。なぜ昭和天皇は終始一貫、決起した青年将校たちを「反徒」と見なし、その「討伐」を命令したのか。
「朕ガ股肱ノ臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ兇暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」(『本庄日記』)。
つまり、天皇が最も信頼していた重臣たちを殺すような奴らは断じて許せない、ということである。こういうことは「真綿ニテ、朕ガ首ヲ絞ムルニ等シキ行為」(同右)と、側近の本庄繁侍従武官長に語ったとも記されている。
この怒りと恐れとは、たしかに昭和天皇の実感だったに違いない。だが、事件から十年後の昭和二十一年に口述されたという「昭和天皇独白録」を見ると、もう一つ討伐を急いだ背景が語られている。
当時軍に対して討伐命令を出したが、それに対しては町田忠治を思ひ出す。町田は大蔵大臣であったが、金融方面の悪影響を非常に心配して断然たる処置を採らねばパニックが起こると忠告してくれたので、強硬に討伐命令を出す事が出来た。
町田忠治は岡田(啓介)内閣の商工大臣だったが、高橋是清が反乱部隊に虐殺されたので、急遽、蔵相を兼任したものである。事件勃発後、全国の株式市場、商品市場はすべて閉鎖されている(株式市場の再開は三月十日)。
また、事件前にすでに「高橋蔵相殺害」などの流言が巷に行き交っていることを、『東京朝日新聞』(二月二十二日付)は報じている。経済不安のタネには事欠かぬ状態ではあった。
しかし、事件の解決が延びるとパニックが起こる、というのはいささか短絡した判断である。町田自身が動転して短絡した判断に走ったのか、あるいは天皇の決断を促すべく、あえてそういう「忠告」をしたのか、いずれかであろう。
高橋是清はなぜ暗殺リストに加えられたのか
「反徒」が初め襲撃目標としていたのは、元老西園寺公望、内閣総理大臣岡田啓介、前内大臣牧野伸顕、内大臣斎藤実、侍従長鈴木貫太郎の五名だった。