『人生を後悔することになる人・ならない人 パラダイムシフトの心理学』
[著]加藤諦三
[発行]PHP研究所
あなたの認めたくないものは何ですか?
私はラジオで、「テレフォン人生相談」を半世紀近くしている。
その冒頭の言葉は、
あなたの認めたくないものは何ですか?
どんなに辛くてもそれを認めれば道は拓けます。
というものである。
ジョージ・ウエインバーグの「ある真理を見たくない、感じたくないという欲求は、全ての神経症に見られます(註1)」という言葉から考えた。そしてその時に、「全ての神経症」という部分に注目した。
つまり、神経症とは「重大な真理を受け入れることを拒否すること」である。
神経症的藤を「悩み」と翻訳すれば、「悩み」は「常に自分が認めたくないものが焦点」になっている。
「私が認めたくないものの焦点は何だろう?」と考えてもらいたいので、ラジオでは冒頭で先に述べたような言葉を毎回繰り返している。
そしてこれは、この本のテーマを解決に導く、カレン・ホルナイ、フランクル、マズロー、アドラーなどの先哲が、「人はいかに生きるか」を語った言葉の趣旨に通じると思っている。
人間は常に成長と退行の藤にさらされている。そしてその時その時を考えれば、退行欲求を選ぶ方が心理的には楽である。しかし長い目で見れば、逆である。退行欲求を選択し続ければ、行き着くところは地獄である。
退行欲求は麻薬と同じで、その瞬間は魅力があるが、決して人間を最終的には救済しない。
人間を解放と救済に導くのは、藤の中で成長欲求に伴う苦しみでしかない。
悪魔のささやきは常にその時その時に楽な生き方へと人を誘惑する。悪魔のささやきとは仮面をかぶった麻薬である。
ひねくれていて幸せになれるのならひねくれていてもよいだろう。
しかし生きるということは困難に満ちた大事業である。それを成し遂げることは並大抵な努力ではない。人生はひねくれていて幸せになれるほど生やさしいものではない。
その時その時をとれば誰にとっても成長は苦しく、退行は楽である。
その時その時をとれば悪魔に魂を売る方が楽である。しかしその先は地獄である。地獄とは生きる喜びを体験する能力を失うことである。
一つの決意が人生のパラダイムを変える
ノイローゼとは、「現実に直面する勇気の欠如」である。そして勇気とは、藤の中で成長欲求を選択することである。
何よりも人が幸せになる絶対条件である「自分自身であること」は、どうすれば可能なのであろうか?
人は、自我価値の崩壊のリスクをおかしながらでしか、自分自身になることはできない。
人には幸せより安心を求める気持ちの方が強い。そこで、多くの人々は「自分自身であること」を放棄する。
だから、自分自身であろうと決意することは、人間の本当の使命である(註2)。
自分自身であろうと決意することで、人生の流れは「依存と怖れ」から「エネルギーと勇気」に変わる。
シーベリーは、「自分自身であり得ないのなら、悪魔になった方がましだ(註3)」という。
そしてさらに、「なぜこうも終始心配ごとで心を煩わせていなければならないのでしょう(註4)」という。それは自分が自分であることを放棄したからである。
嫌われるのが怖いのは、自分自身であることを放棄したからである。
何よりも大切なのは「自分自身であることの勇気」である。
先にあげた先哲たちと、ジョージ・ウエインバーグやシーベリーは、言葉は違うが、人生をいかに生きるかという考え方において趣旨は同じである。
勇気とは現実に直面することである。つまり責任転嫁をしない、合理化をしない、攻撃性の置き換えをしない、抑圧をしない等々である。
人生の中で「内面の自由と力」を獲得しなければならない
本来の生きる意欲を失わせているのは、「否認」であるとフロイデンバーガーはいう。
フロイデンバーガーもいわんとするところは同じである。
それらの先哲たちの言葉の趣旨は、アドラーのいうように、「苦しみは解放と救済に通じる」ということである(註5)。
苦しみの中で、ロロ・メイのいう「意識領域の拡大」があり、カレン・ホルナイのいうように「内面の自由と力」を獲得する。
自分の藤に直面し、解決を求めようとすればするほど、内面の自由と力を獲得する(註6)。
要するに、内面の藤から逃げた人が神経症になる。
心の藤から逃げないことは、感情の自己認識(self-awareness)につながる。
個人が、不安創造的体験にうまく遭遇することから、自我-力(self-strength)が発展するといわれる(註7)。
ロロ・メイもカレン・ホルナイもアドラーも、この点について、言葉は違うが、主張の趣旨は同じである。それはハーヴァード大学のエレン・ランガー教授のいうマインドフルネスでもある。
感情の自己認識は、現実否認の逆である。
「自分の藤に直面し、解決を求めようとする」ことが苦しみであり、勇気である。
「人間にとって苦悩もまた意味を持つのだ」というフランクルの視点も、ほとんど同じ趣旨である。
苦しいことがあった時、「この苦しみには何か意味がある。自分に何を教えているのか?」と考える。このように考えた時に、体験する「苦しみ」は解放と救済に通じる。
苦労がないことが必ずしも幸せなことではない。現実の苦しみがないことが幸せではない。
視野を広げる時には苦しい。現実を認める時には苦しい。しかしその苦しみが最後には救済となる。
「人間が生きる」ということの本質を正しく理解しよう
人間は、幸せになれるようにプログラムされているわけではない。
生きることを安易に考えている現代人に必要なのは、この人間性の正しい理解である。
人間は誰でも幸せを求めるが、人間性そのものの中に幸せを拒否するものがある。いま述べたように、人間は幸せになるようにプログラムされているわけではない。
人間は無力と依存性を宿命として生まれながらも、自分自身にねざして生きるということは至難の業である。この至難なことを成し遂げてこそ、人生に意味が出てくる。
フランクルのいう「苦悩能力」ということについても本書では触れているが、それがあるから、人は正面から苦しめる。苦しみから逃げない。苦悩能力がなければ苦しみから逃げる。
人生には不可避的に問題がある。大切なのは問題解決能力である。苦悩能力とは、問題解決能力のようなものである。
生きるのが苦しいときに、多くの人は「死にたい」といいながら生きている。不幸であっても生きている。
「死にたい」という気持ちは、ウソではない。しかし死ねない。
なぜなら人は生きるようにプログラムされているからである。命ある限り生きるように出来ているからである。
人は幸せを求めるように出来ているのであって、幸せになるように出来ているのではない。
人生を間違えるとはどういうことか
先に述べたように、人間は幸せより安心を求める気持ちの方が強い。
自己実現していない人は、不安の感情の方が不幸や不満の感情より強い。不安を避けられるなら、どんな不幸や不満でも耐える。我慢しようとする。
人間が生きる途上で間違えるのは、怒りの感情の処理の仕方と、苦しみへの態度である。
苦しみへの態度を間違えると、たとえ苦しんでも、その苦しみが解放と救済に通じることはなくなってしまう。
病気なのに健康なフリをしていれば辛い。
三八度も熱があるのに、健康なフリをして働いていれば辛い。
それと同じことである。
具体的には、コミュニケーション能力のある人と、コミュニケーション能力のない人が、一日働いていれば、苦しさは違うし、必要なエネルギーも違う。
コミュニケーション能力のない人は、会社で普通に働いていても疲れる。熱があって働いているのと同じことである。対人恐怖症の人を考えれば理解出来るだろう。
自分が対峙している現実にきちんと向き合えるか
苦しみの回避は「拘束と絶望」に通じる。
この苦しみの回避のための努力がなぜ挫折を生むのか?
劣等感からの努力はなぜ、最終的に挫折するのか?
それは、「私は、そのままでは価値がない」という心のなかの感じ方を強化するだけだからである。
一所懸命に頑張って、努力して不幸になった人は多い。
それは、頑張っている途中で立ち止まって、「私の感じ方は、どこかおかしいのではないか?」と考えなかったことが原因である。
なぜ「あの人はそのままで価値がある」のに、「なぜ自分は、そのままで価値がないのか?」と考えてみなかった。
ある神経症者は次のことに気がついて救われた。
それは、「自分は親から心理的に自立していなかったから苦しかった」ということである。親が与えた、「私は、そのままでは価値がない」という自己イメージに逆らうことが恐ろしかった。
根源にあるのは自己恐怖症である。
自己恐怖症からの努力だから強迫的になる。破滅に向かって努力しないではいられない。
劣等感からの努力は自己恐怖症からの努力である。
人は、どこで自分が自立に挫折したかは意識していない。それを意識化することは苦しいが救済に通じる。
挫折した人は、「自分という現実に耐えられない人間」から、「耐えられる人間」に成長するための試練に耐えられなかった。
「自分という現実に耐えられない人間」から、「耐えられる人間」への成長の過程には、苦しみの克服という試練は不可避である。
挫折した人はその試練に耐えられなかった。
生きるということは、人生の問題を解決していくということである。
人生の諸問題から逃げたければ、心理的には死ぬしかない。
要するに、人生の無意味感に苦しむしかないのである。
「現実の苦しみ」と「心の苦しみ」は違うものである
「自分自身であろうと決意」していないと、他人に気に入られるために自分を裏切り続けなければならなくなる。
依存心が強いから、他人に気に入られることで幸せになれるような気がする。
頑張る、そして気に入られる。でも不幸で不安。
気に入られても、すでに幸福になる力を失っている。
そこで不幸になる。
すると不幸の原因を現実の苦しみに求めてしまう。肉体的、社会的苦しみは現実の苦しみである。
お腹がすいている、寒い、それは肉体的苦しみ。苦しいと感じる原因がハッキリとしている。
だが、「現実の苦しみ」と「心の苦しみ」とは違う。
本来は「現実の苦しみ」と「心の悩みとか不安」と表現した方が適切である。あるいは「現実の苦しみ」と「不幸」と表現した方が適切である。
私たちは、「苦しみ」という時に、現実の苦しみと不幸をすべて含めて「苦しみ」という。
同じように「不幸」という時に、現実の苦しみと心の不幸をすべて含めて「不幸」という。
困難には二つある。現実的困難と、フロム・ライヒマンのいう「感情的困難」である。ところが困難は一種類だと思っている人が多い。
したがって対応を間違える。
現実の苦しみに対する対応と、心の不幸や「感情的困難」に対する対応とは違う。
「人生を後悔することになる人」にならないために
苦しみは成長につながる。救済に通じるというのは、どういうことか?
心の藤に直面することは苦しいが、それが成長、解放と救済に通じるということである。
別の言葉でいえば、「苦しいことを乗りきって成長することが救済に通じる」ということである。
人間は生まれたときから、成長欲求と退行欲求の藤の中で生きることになる。
私たちはよく「自分に負けない」という。
「自分に負けない」とは、自分の退行欲求に負けない、成長欲求に従うということである。
人生の中の戦いは二つある。外敵と戦うことと、自分と戦うことである。
自分と戦うこととは、心の藤に直面することである。
この本では、自分と戦うことについて書いた。
主として現実的困難よりも感情的困難について書いた。
註
1 George Weinberg, The Pliant Animal, St. Martin's Press, 1981, 『プライアント・アニマル』加藤諦三訳、三笠書房、一九八一年十一月十日、一一五頁
2 Rollo May, The Meaning of Anxiety, W. W. Norton & Company, 1977, p.40
3 David Seabury, How to Worry Successfully, Blue Ribbon Books, 1936,『心の悩みがとれる』加藤諦三訳、三笠書房、一九八三年二月十日、一五二頁
4 前掲書、四〇頁
5 Alfred Adler, Social Interest: A Challenge to Mankind, translated by John Linton and Richard Vaughan, Faber and Faber Ltd., 1938, pp.120-121
6 Karen Horney, Our Inner Conflicts, W. W. Norton & Company, 1945, p.27
7 Rollo May, The Meaning of Anxiety, W. W. Norton & Company, 1977,『不安の人間学』小野泰博訳、誠信書房、昭和三十八年七月二十五日、三六頁