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人生を後悔することになる人・ならない人 パラダイムシフトの心理学
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生き方・教養
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第五章 だから、目の前の現実にきちんと向き合うことから始めよう

『人生を後悔することになる人・ならない人 パラダイムシフトの心理学』
[著]加藤諦三 [発行]PHP研究所


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「心の病んだ人」の周りには「心の病んだ人」が集まる


 神経症的傾向の強い人は心理的健康な人とつきあうのは辛い。


 心理的健康な人は、問題を解決するために現実的な努力をする。


 神経症的傾向の強い人は現実的な努力をしない。そうした努力は辛いから逃げる。


 そこで神経症的傾向の強い人は現実的な努力をしないで、ただ歎いている。そうしていても接することが出来る人と接する。


 だから自然と、心の病んだ人は、心の病んだ人とつきあっている。それがお互いに楽だからである。


 問題解決に向けて現実的な努力をしないで、後悔したり一緒になって人を批判していることの方が心理的に楽である。


 神経症的傾向の強い人といってもいいし、心の病んだ人といってもいいが、そういう人たちは問題を解決する姿勢がない。問題を解決しようとしない。


 解決しなければならない問題を前にして、ただ歎いていたり、文句をいっていたり、人を批判したりしているだけである。


 夜、一人でパソコンに向かい、そうした書き込みサイトに延々と恋人、配偶者、上司、同僚等々への不満を書き続ける。ネットに相手への不満をいくら書いても、解決はしない。


 心理的健康な人は、解決しようとしないでただ歎いていたりする人とは一緒にならない。どうしても解決しようとする人と接する。


 そこで心に〓藤のある人は、心理的健康な人とはなかなか人間関係が作れない。


 心に〓藤のある人は、一緒に歎いている人と一緒にいる方が楽である。問題がある時には解決しようとする人と一緒にいることはきつい。


 そこで先にも述べたように、心の病んだ人は心の病んだ人と人間関係ができていく。しかし将来展望は拓けていかない。


 つまり生きていることが楽しくなるということはない。人間関係で楽しいことはない。人生に意味が出てくることはない。


 愚痴と後悔は、その時その時は楽だけど、どんどん生きることが辛くなる。どんどん不愉快なことが増えてくる。


 いくら相手への不満をネットで書き続けても、結果として、「この人生は自分には対処出来ない」という無力感が強くなるだけである。


 心に〓藤のある人は、同じように心に〓藤のある人と一緒にいることは、その瞬間は楽だけれども、長い目で見ると段々と生きるのが辛くなる。不愉快な事柄は増えてくる。


 そういう意味で、心の病んだ人の人生は依存症の人生と同じである。


 アルコール依存症の人がアルコールを飲んだときには、一瞬ホッとするが、結局もっと辛くなっている。


 アルコール依存症の人にとってアルコールを飲むことが問題の解決になっているようであるが、結局問題を深刻化しているだけである。


 理想と比べて現実を歎いてみたり、人を批判しているときには、その瞬間心理的には楽だけれども、結局、生きることはどんどん辛くなっている。


 人間関係で相手を批判しているときは楽だけれども、結局もっと生きるのが辛くなっていく。批判していることは楽だけれども、結局誰とも心のふれあいは持てない。


 自分の心の〓藤から目を背けて人を批判している人の周りには、同じような人が集まる。地道な努力をしない人が集まる。


 心の〓藤から目を背けている人は、人を批判している自分自身を顧みない。

「なぜ自分はこんなに人を批判しているのだろう?」と考えることはない。


 自らの心の〓藤から目を背けている人の周りには、自己実現している人がいなくなる。


 時が経てば経つほど、依存症的人生と、自己実現している人の人生とは、違ったものになっていく。


 このことがアドラーのいう、「苦しみは解放と救済に通じる(註1)」という意味でもあろう。


 現実の自分は、心の〓藤を抱えている。その心の〓藤と向き合い、解決への努力をすることは「苦しみ」である。その「苦しみ」が「解放と救済に通じる」ということである。


 自分の心の〓藤から目を背けていることは楽である。しかし声高に相手を批判したり、何かあると責任転嫁をしたりしていると、その時は楽だけれども、心の〓藤は深刻化する。生きることはどんどん不愉快なことになる。


 心の〓藤から目を背けることは、アルコール依存症の人がアルコールを飲み続けているのと同じことである。


 アルコール依存症や薬物依存症やギャンブル依存症の人だけが依存症なのではない。心の〓藤から目を背けて人を非難している人も、同じように心に問題を抱えた依存症なのである。


 心の〓藤から仕事に逃げている人にはワーカホリックという言葉があり、案外自分が依存症であることに気がついている人も多い。


 しかしただ何もしないで歎いていたり、偉そうに人を批判している人は、自分がアルコール依存症の人と同じような依存症であることに気がついていない。


 現実逃避依存症である。


「人生なんてどうってことない」という人はウソつきである


 最も気がつかない自我防衛は、欺瞞的な哲学的思考である。


 ある高齢者の手記である。



 親しかった友人の大半がとうに死んでしまって、羽振りのよかった者も不運に生きた人も別にどうこういうことはなく、この年になって何か本当の人生が見えてきたような気がしますが、生きていることが人生ではなく、死ぬこともまた人生だという生の側からでなく死の側から人生を見るとまた人生の本来の姿が見えてきたりもします。



 そしてこの人にとって「人生の本来の姿」とは「そんなことどうでもいいじゃないか」ということである。

「そんなことどうでもいい」という「偽りの悟り」の哲学である。

「羽振りのよかった者も不運に生きた人も別にどうこういうことはなく」というのは、この高齢者の内面の虚無感の外化である。つまり自分の内面の虚しさを外側のことを通して感じる。


 親しかった友人の大半が死んでしまった。本当に親しいなら、「あいつは胸に秘めた大願があったが、(こころざし)半ばにして逝ってしまった。さぞ無念だったろう」とか、あるいは、「あいつは頑張った。しかし報われなかった。もしかしたらあの頑張りは、深刻な劣等感だったのか? あいつは生きるのが辛かったろうな、無理していたろうな」とか、「あいつは、我が人生について悔いなしといって死んでいった、凄い奴だったなあ」とかいろいろと思う。


 そして一人一人の友人を固有の人生と感じるなら、「あいつからは、地道に人生を生きることを学んだな」とか「あいつからは、今の幸せを忘れてはいけないと学んだな」とか「あいつは淋しく逝ってしまったな、弱い者をいじめていたからな、あいつの人生からは、人を妬んではいけないと、学んだな」とか、プラス、マイナスを含めていろいろと学ぶことはあるはずである。


 一人一人の固有な人生に思いをはせて、いつまでも友人の死を(いた)むのではないか。


 ところが、皆、とうに死んでしまって「どうということはない」とは、親しい友人はいなかったということである。


 そして毎日の生活でも「そんなことどうでもいいじゃないか」とたいていのことがどうだっていいように思われるという。


 この人が「どうでもいい」というのは、友人の人生でも毎日の生活でもない。


 この人自身の心である。この人の心の虚無感が、友人の死を経験することを通して表現されているだけである。


 まさにカレン・ホルナイのいう「拡散した外化」である(註2)。


 心の中で起きている心理過程を、その人自身の外側で起きていることと経験する傾向である。


 この人は心の底でやりきれない虚しさを感じている。その虚しさを友人の死や日常生活を通して感じている。


 そのことで、かろうじて自分をこの世の中につなげている。


 いろいろな友人の人生を解釈することに、自分の虚無感が表現される。いろいろな人生があったけれども、結局人生なんて「どうってことない」と解釈することで、自分の人生の虚無感を防衛する。


 人の救済に重要なのは、心の〓藤も、虚無感も、そのままに感じることである。自己欺瞞しないことである。


 心の〓藤も、虚無感も、この人のそのままの本当の感情なのである。防衛しないで、自らの人生の虚しさをそのままに感じることが重要なのである。

「この虚しさに私は耐えられない」としっかり虚無感を感じることで、先に進んでいかれる。


 この心の〓藤や虚無感を受け止めることで、成長していかれる。


 そしてこういう態度の人の周りにはまたそういう前向きな態度の人が集まる。


 この心の〓藤や虚無感を感じることを阻止すること、つまり防衛することが、その人の成長を妨害することである。


自分の周りにいる人は、やる気のある人か、やる気のない人かに気づこう


 もちろん一口に自我防衛といっても、ナルシシスティックな自我防衛から神経症的自我防衛までいろいろとある(註3)。


 ナルシシスティックな自我防衛とは、万能感のようなものである。


 どういうことかというと、幼稚な青年が万能感を持っていて、なかなか自己限定できない。そして偉そうなことばかりいっていて、会社できちんと地道に働けない。虚栄心ばかり強くて、日常生活が地に着いていない。普通の人と同じようにこつこつと働けないというようなことだ。最近は、かなりよくあることのようである。


 自我防衛とは、本能的衝動の要求を、現実の条件に適合させる自我の仕事である(註4)。


 フロイドによれば、抑圧は基本的に逃げる試みである。しかし私たちは自分自身から逃げられない。


 基本的に自我防衛はいつも自己欺瞞に至る。これがフロイドの神経症論の核である(註5)。


 しかしいずれにしろ、自我価値の崩壊を防衛しようとすることが、自らの成長を妨害することなのである。

「基本的に自我防衛はいつも自己欺瞞に至る」というフロイドの指摘は、本書の主張の通りである。


 自我防衛の強い人は孤立するか、そういう人の集団を作る。


 何を見ても「あんなことくだらないよ」と馬鹿にして、自分たちの態度を守る。


 つまり無意識の領域では自分が自分をくだらないと思っているのである。



 虚無感に苦しむ時には、伝記やノンフィクションなどで、何かを成した、または大きな失敗を犯した人間の人生を描いた本を読むことである。自分について何かを気づかせてくれる。


 そして心理的健康な人とコンタクトをすることが出来れば、それにこしたことはない。が、自我防衛の強い人は、なかなか心理的健康な人と接することを嫌がる。まさに自我防衛出来ないからである。


 愚痴と批判だけの「やる気のない人」の中にいるだけで、人は無意識で虚しくなる。


 しかし自我防衛の強い人は、どうしても愚痴と批判だけの「やる気のない人」の仲間に入っていく。

「私はやる気のない人の中にいた」と気がつくだけで、もう春はそこまで来ている。


画一的な「幸せのイメージ」を求めて、息苦しく生きる

「苦しみは解放と救済に通じる」。これはアドラーの言葉である。


 第一章でも述べたことだが、「苦しみ」といえば、私たちは「悪いこと」と思っている。そしてできるだけ「避けるべきもの」と小さい頃から理解している。


 それは、感情としては理解出来る。その通り誰でも出来れば避けたい。


 しかし人生は、そのようには出来ていない。もしそれを避けたら、幸せにはなれない。それが人生の事実であることは、よく見れば誰にでも分かる。


 起きた問題の「苦しみ」を正しく理解し、正しく対処するから、苦しみは成長と救済につながるというのが、ここまでも数多く紹介してきた「先哲の教え」である。


 苦しみから逃げるとさらに大きな苦しみに陥る。もっと成長することが難しくなる。それを、本書を読んでもらえれば理解出来るはずである。



 現実の苦しみと心の苦しみを区別できない人は、苦しみを自罰と受け取る。


 自分の今の不幸の原因は、自分の心の歪んだあり方なのに、現実の困難が原因と解釈するから不幸を解決出来ない。


 消費文化がはびこる社会では、幸せの画一的なイメージができている。有名会社のエリート社員になって、結婚して子どもが二人、郊外に一戸建ての家を持って……などの決まり切った人生像である。


 そしてそれが幸せだと思い込んで、家を建てた。玄関を立派に造った。それなのに居間は居心地が悪い。長期の住宅ローンを組んだので、将来に対して少し不安も持ってしまった。比喩的にいえばそういうことである。


 人々は消費文化に振り回されている。「こうしたら幸せになれる」という消費社会の画一的なイメージに心が支配されて、そうしなければダメなのだと思う。


 ブランドものを身につけて、高級車に乗っていると幸せなはずと思う。


 それは全くの幻想である。しかし消費社会の中で視野の狭い人は幻想にしがみついてしか生きる方法がない。


「典型的な幸せ」を得たはずなのに楽しくない


 しがみついているのは、苦しみを避けたいから。心の〓藤に直面したくないから。


 本当は自己蔑視しているから、自己栄光化が必要なだけである。

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