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人生を後悔することになる人・ならない人 パラダイムシフトの心理学
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生き方・教養
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あとがき

『人生を後悔することになる人・ならない人 パラダイムシフトの心理学』
[著]加藤諦三 [発行]PHP研究所


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人間の生き方の基本的態度


 苦しいと思った時には、自分の心に安らぎがない。


 その苦しいときに、なぜ苦しいのかを考える。なぜ安らぎがないのかを考える。

「矛盾と不安定という宿命」を背負った存在である人間が、どう生きたらいいのかということが、この本のテーマであった。


 人間存在が矛盾しているということは、誰もが承知している。


 欲求と規範、本能と理性、存在と当為、個の利益と全体の利益、善と悪、神性と獣性など、人間性の二重構造は誰でも容易に理解出来るであろう。


 そして矛盾ばかりでなく、人間という存在の不安定さもやっかいな問題である。


 モグラはモグラの世界で安定して生きている。モグラは決して自分を見失わない。人間だけが、自分自身であることを裏切って、自分でない自分を生きようとすることが多い。


 人間だけが自分自身にねざして生きない(註1)。


 人に認められたい、気に入られたい、拒絶されたくない、嫌われたくない、孤立を避けたい等々のために、本来の自分を見失う。


 矛盾と不安定という存在である人間は、さらに無力と依存という宿命を背負って生まれて来ている。そうである以上、「苦しみから逃げない」ということのみが幸福をもたらすということである。


 先哲の「苦しみは成長と救済に通じる」という言葉は、人間の生き方の基本的態度を示している。


大きなことをするよりも、小さなことを成し遂げること


 劣等感があるとどういう生き方になるのか。


 それは全体として、勇気を持って人生を肯定することに欠けている、特徴ある生き方になる(註2)。


 人間として生まれた以上、苦しみは避けられない。


 今、人生の無意味感で苦しんでいる人の中には、人間として生まれたことの覚悟が出来ていない人が余りにも多い。


 本書でもふれたが、劣等感から優越感に、必死で逃げる人がいる。


 その心理が、強迫的名声追求である。


 劣等感と向き合うことなく、優越感を持つことで、劣等感を癒やそうとするのが、「苦しみから逃げる」ということである。


 そしてその強迫的名声追求の過程で生まれてくる心理が、アドラーのいう否定的性格としての「異常敏感性」と「焦り」である。


 強迫的名声追求は、自分の人生の問題の包括的解決である。一つ一つの問題に対応しないで、名声を得れば一挙に全てが解決出来ると思っている。


 日々の活動にはいろいろな嫌なことがある。面倒なこともある。苦労も多い。日常生活はそういう日々の活動の積み重ねである。


 当然、どの仕事だっていろいろな嫌なことがある。面倒なこともある。苦労も多い。


 その日常の具体的な煩わしいことを避けようと思えば、強迫的名声追求になる。


 神経症的傾向の強い人は、その日々の活動からくる不安や苦しみを回避して、一挙に解決したいという願望の強い人である。


 包括的解決ということは、いまのさまざまな心の問題を、皆一気に解決してくれる「魔法の杖」ということである。


 しかし、人生に魔法の杖はない。


 真の誇りは、自分のいままでの長年にわたる生き方からつくられる。


 ずるく立ち回って成功しても、誇りはもてない。


 どんな小さなことでもいい。


 ひとつのことをきちんと成し遂げることからはじめよう。


 そして、「私は、これだけは必ずしている」と自信をもっていえるものをもつこと。


 どんな小さなことでも、自分でやれば自信がつく。


 人は、大きなことをしたから自信がつくのではない。


 いつも悩んでいる人は高い山に登ることが自信につながると思っている。


 だから自信をつけることには辛さが先に来る。


 本当は、この小さな山を登った時の達成感が、自信の芽となる。


 登った時に味わった満足感が、自信の芽となる。


 自信は楽しいことがないとつかない。


 まず健康、そして動く。


 一回でも満足する心をもつ。



 すると次の行動へのエネルギーがうまれる。


 そして「あれが欲しい、これが欲しい」がなくなる。


マルクスだって「現実のこの世を楽しめ」といっている


 ところが解決の意志のない不安な人は、合理化とか、否認とか、逃避とかいろいろな形で、その場その場の不安を解決する。


 小さい頃に深く傷つき、復讐心から強迫的名声追求をする人が、生きがいを感じることは無い。その心の姿勢がその人の全人格を変化させてしまうからである。


 人はお互いに人格が異なれば、お互いに何を喜ぶかは違ってくる。どのような人生を送りたいかという願望も違ってくる。いま、この時間をどう過ごしたいかも違ってくる。


 人の評価も違ってくる。


 望むライフ・スタイルも違ってくる。


 強迫的名声追求は、人が内面の過程(註3)にとどまることの妨げになる。心の満足ではなく、栄光を求める。


 外側における自己栄光化の道は、内面では自己蔑視への道になる(註4)。


 心に傷があった時には、小さなことをひとつひとつクリアーしていくこと、その体験が母の力を与えてくれる。

「大きなことをやって見せる」といって知識をたくわえ、それをひけらかしている人がいる。そういう人は、この体験がない。


 この人たちは何もできない。

「母なるもの」を体験しない人は、生きるのに必要なエネルギーがない。


 自分を活かすように自分の宗教を使う人もいれば、宗教を使って自分の責任から逃げる人もいる。


 同じ宗教でも、それを使って自らの現実逃避を正当化する人もいれば、その宗教で救われる人もいる。


 問題は宗教そのものではなく、宗教を使って自分を活かすか殺すかである。問題は宗教に向かうその人の態度である。


 フロムの言葉を借りれば、それは生産的構えか、非生産的構えかである。


 資本主義と、マルクスが説いた本来の「マルクス主義」とでは、心理的に見れば、表面的に見えるほど違いがあるわけではない。


 マルクス主義も、資本主義も、プロテスタンティズムの倫理も、核となる心や精神は、表面的に見えるほど違いがあるわけではない。


 その心は皆、「自分を活かせ」ということである。


 よく、宗教は民衆のアヘンであるといわれるのは、現実逃避の正当化に宗教を使う人がいるからである。宗教は民衆のアヘンであるといったからといって、マルクス自身は宗教を否定しているわけではない。現実のこの世を楽しめという主張である。


人類の究極の知恵は「逃げるな」ということ


 政治思想も宗教も、優れたものであれば、「現実否認をするな」、「現実逃避をするな」という心の姿勢の一点では同じである。


 この一点で、人類は共通しているという認識が、人類を救うに違いない。


 現実逃避、現実否認、それを明確に否定するということが、人類究極の知恵である。


 簡単にいえば「逃げるな!」ということである。



 マルクス主義の名前を使ってマルクスの精神を否定する人もいるし、仏教の名前を使って仏教の精神を否定する人もいる。


 それが現実逃避する人である。


 自分の現実逃避を正当化するための思想、宗教、それが世俗には多い。


 問題は、自分の信じる宗教に向かう、その人の態度である。


 問題は、自分の信じる政治思想に向かう、その人の態度である。


 信じる宗教は何でもよい。信じる政治思想は何でもよい。


 その自分の「信じる考え」に、どういう態度で向き合うかということである。


 もし現実否認をしない、現実逃避をしないという態度で向き合うならば、違った宗教の人と共存できる。違った思想の人と共存できる。


 しかしそれに向き合う態度が、非生産的構えであれば、つまり現実否認、現実逃避の人生の態度であるならば、同じ宗教、同じ思想でも、いがみ合うし、殺し合う。


 もう一度いう、人類究極の知恵は、「逃げるな」である。「現実否認をするな」である。


 現実否認は麻薬である。逃げることほど魅力的なことはない。ギャンブルやアルコールに勝てない人がいるのと同じように、逃げることには勝てない人がいる。


 どんなに平和を唱えても、そういう人は、行き詰まれば戦争を推進するようになる人である。


 究極の現実否認は、例えば本書で紹介したカルト集団で集団自殺した人の心理である。


 このカルト集団では、教祖のことを「あの人は他の惑星から来た人である」といった。こうしたカルト集団の信者たちが陥っているのが、現実否認である。


天国と地獄の分かれ道を先哲から学ぶ


 生きることは苦しい。しかし苦しみは成長と救済に通じる。


 それは自我価値の防衛をしないことである。


 自我が現実から逃げないことである。

「逃げる」とはロロ・メイの言葉を使えば「不安の消極的回避」である。

「酒は百薬の長」ともなるし、《悪魔の水》ともなる。どちらにもなる。それはなぜ酒を飲むかという動機によってどちらにもなるということである。


 現実逃避のために酒を飲めば、《悪魔の水》となり、楽しみのために酒を飲めば、《百薬の長》となる。


 人生も同じである。人生にどう立ち向かうかで天国にもなれば、地獄にもなる。


 この本は、「ここが天国と地獄の分かれ道ですよ」ということを先哲から学ぼうとしたものである。


 不安な時、人は誰でも不安を解決しようとする。解決しようと努力することにおいては、皆同じである。違いは解決する態度である。


 解決したいと望みながらも問題をより深刻化させてしまう人と、解決しようと努力して本当に解決する人がいる。


 問題から逃げていながら解決しているつもりでいる人が多い。たとえばそれが宗教依存症であり、政治的過激主義である。


 解決しようと努力して本当に解決するにはどうしたらよいか。


 それは不安を感じた時に、「自分は自分に何を隠しているのか?」を問いかける努力をすることである。


 自分の無意識の中に、不安に通じる何があるのかを意識化する努力をする。「自分は今何を意識していないのか?」を知る努力をする。


 自分の無意識の中で問題をかかえている症状は何か?


 たとえば、人間関係がことごとく失敗している。そして自分から見ると「私は悪くない」としか思えない。


 自分は頑張って良くやっている。でもなぜか結果はことごとく悪い。


 そういう症状を認めることが、現実に立ち向かうことであり、自分に直面することである。


 不安な時には、自分を受け入れる努力をする。その方向に人生航路の舵を切る。


 逆境で苦しむが、それは心の毒を捨てるということである。


 だからうんと苦しんで、毒を全部捨てなさい。


 苦しむことで性格の歪みが治る。


 毒を吐いている時に、次の幸せへのステップの準備をしているのである。


 苦しみのない人は幸せになれない。


 私は美人ではないと劣等感を持つ人がいる。


 私は美人ではないけれど、いいところもあると明るく生きる人もいる。


 前者は努力をしないで幸せになろうとしている人である。美人でないから私は不幸だといういまの立場に固執する人である。


 後者は幸せになるために偽りのない努力を惜しまない人である。



 最後に、ウエインバーグの言葉を挙げておきたい。



 真実から逃げること、そのことが、真実をより恐ろしく思わせてしまうのです(註5)。



 人生には生存と実存の問題がある。


 人生には政治的民主主義制度の確立や、経済的繁栄、科学技術の進歩などでは解決出来ない問題がある。


 いわゆる上昇志向では人生の諸問題は解決出来ないことがある。


 それが実存の問題である。


 この本では、生存という視点から人生の諸問題を取り上げたのではなく、あくまでも実存という視点から人生の諸問題を取り上げた。



 生き方を教えてくれ、


 考え方を教えてくれ、


 いま、子供ばかりでなく、


 人々はそう叫んでいる。


 先哲に聞こう。



 この本も、長年にわたって私の本を編集してきてくれた大久保龍也氏にお世話になった。




 平成三十年一月

加藤諦三 



1 Karen Horney, Neurosis and Human Growth, W. W. Norton & Company, 1950, p.39

2 〓〓ran Wolfe, How to Be Happy Though Human, Farrar & Rinehart Incorporated, 1931,『どうしたら幸福になれるか』上巻、周郷博訳、岩波書店、一九六〇年十二月二十日、七〇頁

3 Karen Horney, Neurosis and Human Growth, W. W. Norton & Company, 1950, p.24

4 ibid., p.39

5 George Weinberg, The Pliant Animal, St. Martin's Press, 1981, 『プライアント・アニマル』加藤諦三訳、三笠書房、一九八一年十一月十日、一〇五頁

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