『「中国なし」で生活できるか 貿易から読み解く日中関係の真実』
[著]丸川知雄
[発行]PHP研究所
~家具・日用品輸入の知られざる実態~
仏壇や家具も大半が中国製
中国から飛行機で日本に帰ってくると、日本は緑豊かな国だとつくづく思う。日本は国土の六六%が森林である。一方、中国の国土のうち森林はわずか一八%にすぎず、砂漠および荒漠と呼ばれる荒れた土地が国土の二七%を占めている。進行する砂漠化を食い止め、森林面積を増やすために、第1章で触れた急な傾斜地での農業をやめて植林する「退耕還林」政策など、様々な努力が続けられている。
だが、森林資源が乏しいはずの中国なのに、家具や木製品の輸出は極めて活発。なかでも、「こんなものまで中国製なのか!」と私自身驚いてしまったのが、仏壇である。
日本では年間約三五万基ほどの仏壇が販売されているというが、二〇〇七年にはそのうち二六万基が輸入され、なかでも中国からの輸入が二〇万基近くにおよんだ。つまり、日本で売られている仏壇の六割近くは中国製なのである。
仏壇に関しては、原産地を表示する義務はないので、一般の人が中国産と日本産を区別することは難しい。さらに中国の仏壇メーカーは、日本向けに日本産仏壇の特徴を真似て作るので、なおさら見分けは難しい。経済産業省指定の伝統的工芸品である「名古屋仏壇」といえども、安い中国産のコピー製品の横行に悩まされ、業界団体では消費者に対して産地証書を確認して買うように呼びかけている。
だが、日本製を買ってほしいといっている日本の仏壇メーカー自体、製品を安く作るために中国から部品を輸入して組み立てるだけ、というところも増えてきているという。こうなると、「日本製」と「中国製」は本当に違うのか、という疑問も生じてくる。
仏壇や各種の家具、割り箸などの木製品を、日本がどれくらい中国からの輸入に依存しているかを見たのが〈図表10〉である。ただ、正直にいえば、この図のデータはあまり厳密ではない。というのは、日本国内の生産に関する経済産業省の統計と、輸入に関する財務省の統計の分類法がかなり異なっているためである。
例えばプラスチック製家具は日本国内の生産に関するデータが見つからなかったため、国産は〇%となっているが、実際にはある程度の生産は行われているはずである。仏壇やプラスチック製家具以外では、食器棚や本棚、事務所用以外の金属製家具、寝室用木製家具などの中国への依存度が高い。
それにしても、日本で売られている食器棚や本棚の約半分が中国製だというのは、多くの人にとって意外な事実であろう。衣服の場合、服の裏側についているタグを見れば必ず「中国製」や「日本製」などと書いてあるので、日本に中国製品が溢れているという実感がある。しかし家具の場合は、ブランドはついていても、どこの国で作られたものかは、通常はどこにも表示していないからである。
しかも、中国から輸入される家具は中国風のものばかりではなく、日本風やヨーロッパ風のデザインを取り入れたものも多い。そのためプロの目で見ても、どこで作られたものか判定するのは容易ではない。
二〇〇七年一〇月には伊勢丹、松屋、京王百貨店、丸井今井など全国一〇店舗の百貨店で、中国製のダイニングチェアなどを「イタリア製」と誤って表示、販売していたことが発覚した。中国から輸入した貿易商社は、中国製をイタリア製と偽るつもりはなかったのだが、貿易商社と百貨店とのあいだに介在した輸入家具販売会社が、生産国を誤解したことが原因だった。
このことが意味するのは、家具販売のプロの目をしても、中国製のダイニングチェアをイタリア製だと誤解してしまうほどに、中国の家具メーカーはイタリア家具の特徴をよく習得していた、ということである。もちろん、中国の家具メーカーがイタリア風の家具を作ろうが、日本風の家具を作ろうが、ほかのメーカーの商標を騙り、意匠権を侵害しているのでなければ、それは何ら責められることではないのだが。
中国の家具の都──厚街鎮
中国のなかで、家具産業が特に集中しているのが南部の広東省で、全国の生産の三割を占めている。なかでも香港と広州の中間にある、東莞市の厚街鎮という人口四〇万人ほどの町が、家具産業のメッカである。人口四〇万人というと結構な都市に思えるかもしれないが、うち三〇万人は内陸部などから来た出稼ぎ労働者たちが占めており、もともとは人口八万人程度の片田舎だった。
「瀬粉」という太いビーフンが特産品という以外に、取り立てて特徴がない農村地帯だった厚街鎮が、家具産業の世界的な拠点になったのは、たかだかこの一〇年ほどのあいだにすぎない。厚街鎮に最初に家具産業の種が撒かれたのは、一九八五年であった。香港で家具の輸出を行っていた業者が、厚街鎮の双崗という村に家具の工場を建て、地元の村民数十人を雇って家具を作り始めたのである。
この工場で働いて、家具の作り方や、海外市場で売れる家具を作るにはどうしたらよいかを学んだ数十人の村民たちは、その後みんな独立して、それぞれが自分の工場を設立したという。さらに、それぞれの工場で働いた人たちがまた独立する、という形で厚街鎮を中心とする家具産業はどんどん広がっていった。家具メーカーの数は、二〇〇二年の時点で厚街鎮だけでも四〇〇社、東莞市全体では二〇〇〇社にまで拡大した。
厚街鎮は、日本でいえば「町」に相当する小さな地方自治体にすぎないが、地元の家具産業の発展と、靴や電子製品を作る外国企業の工場進出が多いため、財政収入は極めて豊かである。厚街鎮はその豊かな財政資金と、地元の村や企業からの出資などを募り、約三八億円の投資を行って「広東現代国際展覧中心」という巨大なコンベンション・センターを二〇〇二年に完成させた。
敷地面積が三三万というこの巨大な展覧館は、厚街鎮政府の弁によれば「東洋一」の規模なのだそうだ。