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歴史
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第二章 藩主松平容保の京都守護職任命

『山本覚馬』
[著]安藤優一郎 [発行]PHP研究所


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朝廷権威の上昇と幕府権威の失墜


 文久二年(一八六二)という年は、藩主松平容保(まつだいらかたもり)が京都守護職に任命された年である。これを境に会津藩主従の運命は暗転するが、まずは会津藩が京都に向かうまでの政治情勢を整理しておこう。

 先にも述べたように、覚馬が属した会津藩は徳川御三家とともに、幕府からは将軍の親族である親藩大名として位置付けられていた。御三家にせよ会津藩にせよ、親藩大名は幕府政治には関与できないのが建前だった。会津藩祖保科正之のように将軍補佐役として幕政に参与することは過去にもあったが、あくまでも例外。時の将軍の特命があって、はじめて幕政にタッチできた。もちろん、外様大名は幕政に参画することはできない。

 ところが、嘉永六年(一八五三)のペリー来航を境に、そうした原則が崩れはじめる。老中阿部正弘を首班とする幕閣は、開国を求めてきたアメリカ大統領からの将軍宛親書を諸大名に公開し、親藩・譜代・外様の別に拘らず広く意見を求めた。対外問題には挙国一致で臨むことが必要と考え、全大名から意見を徴する形を取ったのだ。

 幕府はこの時、朝廷にもペリー来航を報告し、同様の姿勢を示している。ペリーからの開国要求について何か具体的な考えがあれば申し出ていただきたい、その考えに沿って取り計らいたいと申し入れたのである。

 幕府は開幕以来、朝廷が政治に容喙(ようかい)してくることを極度に警戒してきた。幕府のトップである将軍職は天皇から任命された職だったが、国政については朝廷に白紙委任を求め、容喙は許さなかった。

 実際、朝廷が幕政に容喙することはなく、幕府に任せ続けてきた。阿部が朝廷に意見を求めたのも、従来どおり白紙委任してくると見込んだ上でのリップサービスだった。幕府としては、朝廷の承認を得ることで挙国一致体制を磐石(ばんじやく)なものとし、いわゆる鎖国から開国へと、外交政策をスムーズに転換させようと目論んだわけである。だが、こうした配慮が結局は命取りになったことは、その後の歴史が教えてくれる。

 嘉永七年(一八五四)にペリーが再来航すると、幕府は日米和親条約を締結するが、これで外交交渉が終わったわけではなく、条約締結ははじまりに過ぎなかった。アメリカなど欧米諸国は幕府に通商条約の締結を強く求め、日本を世界の貿易市場に組み込もうとする。

 当時、阿部に代って老中首座となっていた堀田正睦(ほつたまさよし)は世界情勢を踏まえ、通商条約の締結を決意する。阿部が敷いた路線のもと、朝廷(天皇)の承認を得た形での条約締結を目指そうとしたのだ。しかし、こうした政治手法は幕府が否定してきた朝廷の政治的立場を自ら認めたことを意味した。さらに、朝廷を介して幕政に影響力を行使しようと目論む親藩・外様大名を刺激する結果を招いた。

 その結果、朝廷権威は急浮上する。天皇のみならず、朝廷を構成する公家たちも政治的発言力を強めていったが、一方幕府権威は低下の一途を辿る。

 そして、幕府にとって予想外だったのが、通商条約に対する孝明(こうめい)天皇の強い拒絶姿勢だった。天皇は極度の攘夷主義者であり、元々外国人に対して強い嫌悪感を持っていた。外国との貿易開始により、国内の産物が外国に流れることにも拒否反応を隠そうとはしなかった。こうした事情から、通商条約締結の承認を求めてきた幕府の申請を却下してしまう。

 通商条約の締結問題は暗礁に乗り上げるが、堀田に代って幕政の全権を握った大老の井伊直弼(いいなおすけ)は、安政五年(一八五八)六月十九日に天皇の許可つまり勅許を得ることなく日米修好通商条約を締結する。天皇や朝廷はもとより、井伊を快く思わない大名や家臣(藩士)たちはその非を鳴らすが、逆に弾圧を受けてしまう。世に言う安政の大獄である。

 だが、その反動はたちまち井伊自身の身に降りかかることとなった。

国政への参画をうかがう外様大名


 安政七年(一八六○)三月三日、井伊は江戸城桜田門外で殺害された。安政の大獄に対する報復だったが、この事件により幕府権威は著しく失墜していく。

 その後、幕閣の中心となった老中安藤信正(あんどうのぶまさ)は、孝明天皇の妹和宮(かずのみや)を十四代将軍徳川家茂(いえもち)の御台所として迎えること(和宮降嫁)に成功する。いわゆる公武合体により幕府の復権をはかろうとしたが、その時、後々まで苦しめられる約束を天皇にしてしまう。天皇が強烈な攘夷主義者であることに目を付けた幕府は、七、八年あるいは十年以内に「破約攘夷」すると約束することで、当初難色を示していた和宮降嫁を実現させたからである。
「破約攘夷」とは、幕府が諸外国と結んだ通商条約を破棄して攘夷を実行、つまり外国人を日本から追い出すことであった。当時の社会情勢からすれば実現不可能な話だったが、幕府は和宮降嫁を実現させる方便として天皇に約束してしまう。しかし、結局のところ幕府はこの約束を逆手(さかて)に取られ、条約の破棄と攘夷の実行を朝廷から激しく責め立てられることとなった。

 朝廷だけではない。尊王攘夷を唱える志士たちも、破約攘夷の実行を迫ることで、幕府を追い詰めていく。その大半は外様大名の家臣であり、それまで国政に参画する道はまったく閉ざされていた者たちだった。

 彼らは尊王攘夷を錦の御旗に政治参加を目指したが、その(さきがけ)となったのは長州藩士たちだった。文久二年(一八六二)に、長州藩では通商条約を破棄して攘夷を実行するよう、朝廷をして幕府に命じさせることが藩の方針として定められる。

 一方、摩藩は別の形で国政への参画を目指す。同年三月十六日、藩主島津茂久(しまづもちひさ)の実父久光(ひさみつ)が千人もの藩兵を率いて江戸へ向かった。久光は表向き、江戸藩邸焼失のため参勤できない藩主茂久の代理と称していた。だが、本当の目的は江戸出府の途中に京都へ立ち寄り、勅使を奉じた上で江戸に向かい、国政への参画を実現することだった。

 四月十六日、久光は京都の摩藩邸に入ったが、この日朝廷は京都の警備に摩藩があたるよう命じてきた。本来京都の警備は、幕府が譜代大名から任命した京都所司代の職掌だった。ところが、当時京都には尊王攘夷派の志士たちが多数集結して不穏な動きを示しており、所司代の力ではとても抑え切れなかった。

 そこで、朝廷は摩藩に京都警備と過激浪士の取り締まりを命じたわけだが、この処置は京都所司代および任命権者である将軍への不信任を表明したものに他ならない。朝廷に無視された形の幕府には衝撃だった。後にこれが、京都守護職設置の伏線となっていく。

島津久光が幕政介入のために送り込んだ松平春嶽


 久光の江戸出府の目的は、朝廷の権威(勅使)を後ろ盾にして幕府にプレッシャーを掛け、国政への参画つまり幕政進出を実現することだった。その第一歩として、朝廷工作をおこない、幕府の最高人事への介入をはかる。徳川家一門の一橋慶喜を将軍後見職、親藩大名の一人である前福井藩主松平春嶽(しゆんがく)を大老職に起用することを求める勅使の派遣を実現させたのだ。

 春嶽には久光の亡兄斉彬(なりあきら)とともに、十四代将軍として慶喜の擁立をはかったという前歴があった。久光としては、慶喜と春嶽を幕閣に送り込むことで幕政への発言権を確保しようとしたのだろう。彼らが摩藩の代弁者として動いてくれることを期待したはずだ。
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