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歴史
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第三章 幕府と薩摩藩の思惑に翻弄される会津藩

『山本覚馬』
[著]安藤優一郎 [発行]PHP研究所


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長州藩への処置で摩藩と幕府が対立


 禁門の変では、会津藩と摩藩は共同して長州藩を撃退したが、その蜜月関係は長くは続かなかった。長州藩の処分問題をめぐって両藩は対立したのだ。

 禁門の変の後、孝明天皇から長州藩追討の勅命が下ったことで、幕府や諸藩から構成される征長軍が組織されることになった。元治元年(一八六四)八月五日、紀州藩主徳川茂承(とくがわもちつぐ)が総督に任命される。第一次長州征伐のはじまりである。

 しかし、同七日に茂承は更迭される。代って、安政五年(一八五八)まで尾張藩主を勤めていた徳川慶勝(よしかつ)が総督に任命された。慶勝は尾張藩の分家にあたる美濃高須藩主松平義建の次男として生まれ、本家を継いだ人物である。つまりは容保の実兄にあたる。

 禁門の変で摩藩兵を指揮し、危地に陥った会津藩兵を助けて長州藩兵を撃退した西郷も、参謀の一人として征長軍に加わった。覚馬は京都にいる間、摩藩士との交流を深めている。

 文久三年(一八六三)八月十八日の政変から禁門の変まで、会津藩は摩藩と盟友関係にあり、藩士同士の交流は盛んだった。前章でみたように、文久三年八月十八日の政変を実現させた秋月悌次郎と摩藩士高崎左太郎の交流はその象徴である。

 覚馬にしても、摩藩との間に培った人脈が明治維新後の活躍の大きな要因となる。なかでも、その代表格である西郷とは親しかったというが、具体的なエピソードまでは残念ながら分からない。ただ第六章で述べるように、西南戦争の折に西郷の救出に命を賭けようとしたことからも、その信頼関係が非常に厚いものだったことは確かである。

 征長総督府は広島城下に置かれた。長州藩と国境を接する広島藩は外様大名の浅野家が藩主で、大政奉還後は摩・長州藩と連合して王政復古を実現する側に回っている。

 一方、禁門の変に敗れた直後の元治元年(一八六四)八月五日、長州藩は関門海峡に現れたイギリス・アメリカ・フランス・オランダ四カ国から成る連合艦隊の砲撃を受ける。同海峡での攘夷実行(文久三年五月十日)に対する報復攻撃だった。翌六日からは陸上でも戦闘が開始され、連合国軍の前に敗退する。砲台が破壊され、大砲が奪い取られた。

 追い詰められた長州藩は、四カ国に講和を申し入れる。同十四日、四カ国との間に関門海峡の自由通航、賠償金支払いなどを認める下関協約が締結された。こうした状況では、とても征長軍を迎え撃つ余力など長州藩に残ってはいなかった。

 そんな内憂外患の状況を踏まえ、西郷は長州藩に恭順の意思を示させようと考える。禁門の変の責任者として、国司信濃たち三人の家老と四人の参謀の首級(しゆきゆう)を差し出させることで、第一次長州征伐の終結をはかったのである。

 既に長州藩国境には、総勢十五万人に及ぶ諸藩の兵が集結していた。それだけでも征長軍参加諸藩には大きな負担だったが、開戦となれば、軍費の負担はさらに増して財政難が深刻化する。国内が内乱状態に陥ることへの危機感も、諸藩の間では強かった。

 そこで西郷は、戦わずして長州藩を屈服させることで一件落着を目論む。征長軍参加諸藩にしても、これ以上の財政負担を被らなくても済むだろう。慶勝も西郷の処置に賛同した。長州藩も国司たちの首級を差し出してきた。慶勝は十二月二十七日に征長軍の撤兵を命じ、ここに第一次長州征伐は終結した。

 だが、西郷つまり摩藩が主導した今回の処置に、幕府は大いに不満だった。あまりにも寛大過ぎるというのだ。責任者の処罰にとどまり、減封処置が取られたわけでもない。幕府に反旗を翻して軍事行動を起こしただけでなく、朝敵にもなった以上、たとえ御家取り潰しになっても何の文句も言えないはずである。

 よって、幕府は長州藩に対して藩主毛利敬親(もうりたかちか)広封(ひろあつ)父子を江戸に送るよう厳命する。二度と反旗を翻さないよう、藩主父子を人質に取ろうとしたのだ。幕命に従わなければ、将軍自ら江戸城を出陣して討伐するとまで宣言したが、長州藩はこれに応じなかった。

 慶応元年(一八六五)五月十六日、将軍家茂は江戸城を進発する。征長軍が再び組織され、第二次長州征伐(長州再征)がはじまったのだ。しかし、家茂が再び江戸に戻ることはなかった。

公用方と国元、会津藩内で深まる路線対立の溝


 長州藩に対する慶勝や西郷の寛大な処置に不満なのは、会津藩とて同じである。その急先鋒は京都で尊攘派公家や志士たちと鋭く対立する公用方だった。

 だが藩内では、長州藩処分問題に深入りすることを懸念する意見が国元を中心に強かった。池田屋事件そして禁門の変と、長州藩との因縁が深くなり、血で血を洗う事態になっていたため復讐を覚悟せざるを得ない。

 長州藩は御所に発砲した廉で「朝敵」と認定されたが、当然ながら長州藩はそれを認めない。あまり知られてはいないが、当時長州藩は自藩を「会敵」と称していた。いかに、長州藩が会津藩を敵視し憎悪を抱いたかが分かる自称である。

 このまま会津藩が守護職を勤め続けることは危険極まりない。宿敵となった長州藩との関係を、国元では非常に危惧していた。

 幕府は征長軍(第二次長州討伐)を再び組織し、慶応二年(一八六六)六月七日に長州藩との戦いに入るが、会津藩が前線に出ることはなかった。この事実もあまり知られていないだろう。

 禁門の変で幕府方が勝利を収めると、征長軍が組織されて第一次長州征伐がはじまるが、その頃国元は京都の公用方に対し、会津藩は長州征伐に深入りすべきではないと進言していた。ついには、容保の守護職辞任と帰国、つまりは会津藩の国元総引き揚げまで求める。それだけ、長州藩の復讐を恐れたのだ。

 国元の立場からすると、藩主を奉じて独走しがちな公用方に対する危惧もあった。藩主を抱えている以上、公用方に代表される京都詰の藩士たちが藩政をリードするのは避けられない。まして容保は病気がちであり、公用方が藩の方向性を事実上決めていたのが実態だった。幕府と歩調を合わせる形で長州藩に対する厳しい処分を主張し、長州再征を政治日程にのぼらせたのは他ならぬ公用方である。

 公用方が長州藩との全面対決路線を主導することに、国元では危機感を募らせる。会津藩を危地に追い込むというのだ。こうした藩内の路線対立が第二次長州征伐の折、藩兵を前線に送るのを躊躇(ちゆうちよ)させる理由となった。

 会津藩は、長州藩との全面対決路線でまとまっていたのではない。長州藩への対応をめぐり、政局の現場にいた京都詰の藩士(公用方)と、そうした政局の場からは離れていた国元や江戸詰藩士との間で、激しい意見の対立があった。そこでは、藩権力を握った公用方に対する藩内の嫉妬も見逃せない。

 会津藩というと、全藩を挙げて政府軍に徹底抗戦。そして散っていった鶴ケ城籠城戦の印象が強く、どうしても一枚岩のイメージで捉えられがちである。

 しかし、その内実は藩内に激しい路線対立を抱えていた。会津藩を代表して幕府(徳川家)を支えていると自負する公用方と、会津藩の存亡に関わるような他藩との政治闘争に深入りすべきではないと考える国元との対立だ。

 他藩にしても、その内情は複雑だった。例えば、長州藩では藩内抗争が激しく展開され、内戦まで起きている。高杉晋作(たかすぎしんさく)は奇兵隊を率いて幕府への恭順を唱える藩当局との戦いに勝利を収め、武力対決も辞さないとする方針に藩論を転換させた。この藩論の転換が、長州再征の呼び水となる。

 摩藩でも、藩の方針に従わなかった藩士が上意討ちされたことがあった。土佐藩にしても、土佐勤王党のリーダーだった尊攘派志士の武市半平太(たけちはんぺいた)とその同志が、藩当局からその主張を危険視されて切腹を命じられている。会津藩に限らず、どの藩も内部には路線対立を抱え藩内抗争が展開されていた。

 だが、会津藩が直面したのは長州藩との関係悪化だけではなかった。この頃、幕府との関係も悪化していたのである。

味方であるはずの幕府が背後から鉄砲を撃つ


 会津藩は鶴ケ城落城に象徴されるように、幕府に殉じたというイメージがたいへん強い。そのため、最後まで幕府と一体化していたと思われがちだ。

 ところが、幕府との関係は必ずしも良好なものではなかった。むしろ、逆である。

 幕府からの強い要請に応え、容保は京都守護職に就任したはずだったが、江戸にいる老中や奉行クラスの実務官僚からは、朝廷の権威を借りて幕政に容喙してくる「京都方」として、その行動に強い疑念を持たれていた。容保だけではない。禁裏御守衛総督の慶喜や京都所司代の定敬も同様だった。

 当初慶喜は幕府から将軍後見職に任命されたわけだが、同職を辞職して朝廷から禁裏御守衛総督に任命されると、朝廷との関係を密接にすることで政治的地位を高める。天皇の厚い信任のもと朝廷の会議をリードし、その政治的立場を後ろ盾に幕府や諸藩に影響力を行使したからだ。容保や定敬も、そんな慶喜と政治行動を共にすることが多かった。

 幕府の立場からすれば、容保たち三人は京都に派遣された幕府代表者のはずである。もちろん、三人は自分の立場はわきまえていたが、京都にいると朝廷に配慮しなければ円滑に職務が遂行できない。朝廷の意向を代弁する役回りを自ずから演じざるを得なかったが、幕府からみると幕府の人間なのか朝廷の人間なのか分からない。味方なのか敵なのか分からない、となる。その動向がたいへん危険視されていたのである。

 ついに、幕府は「京都方」と目していた三人を排除する動きに出る。特に会津藩の場合は、藩の存亡にも関わる問題にまで発展していったのだ。

 これまで会津藩は役料として五万石(数万両)を与えられたが、京都での出費が年間で九万六千七百九両にも及んだため、とても足りなかった。会津藩の年間収入は二十一万六千両ほどであり、約半分が京都で消えていた格好だ。

 そこで老中稲葉正邦に掛け合い、一万両を別に支給されることになった。ところが、それが突然ストップされる。会津藩を兵糧攻めに掛け、容保を守護職辞任に追い込もうという幕府の目論見だった。
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