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歴史
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第四章 西郷隆盛を驚かせた意見書

『山本覚馬』
[著]安藤優一郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:28分
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徳川方VS摩藩、江戸で戦争はじまる


 江戸で徳川家と摩藩の間で戦争がはじまったのは慶応三年(一八六七)十二月二十五日のことだが、王政復古直前の十一月頃より、江戸の治安は極度に悪化していた。市中で強盗騒ぎが頻発していたのだ。

 十一月十四日、幕府の御用商人で日本橋に店を構える両替商播磨屋新右衛門(はりまやしんえもん)が、一万五千両もの大金を強奪される事件が起きた。こうした強盗騒ぎが江戸の各所で起きたが、強盗たちが根拠としていたのが摩藩の三田屋敷だった。

 江戸市中を騒がせただけではない。関東各地にも強盗が出没したため、江戸のみならず関東一帯が騒然とした状況に陥っていく。徳川方の後方攪乱を狙う摩藩が、裏で糸を引いていたらしい。

 そうしたなか、二十三日の早朝に江戸城二の丸御殿から火の手があがった。二の丸御殿には、十三代将軍家定(いえさだ)の御台所天璋院(てんしよういん)が住んでいた。摩藩から大奥に嫁いだ女性であり、奥女中には摩出身の者もいた。このため、摩藩の放火ではないかという噂が流れ、江戸市中の動揺はさらに高まる。

 同日夜には、江戸市中取締の任にあたる庄内藩酒井(さかい)家の屯所に鉄砲が撃ち掛けられた。酒井家、同家に属する新徴組(しんちようぐみ)や幕府陸軍所所属の歩兵もこれに応戦し、浪士側は摩藩三田屋敷に逃げ込んだ。

 そのため、江戸城の留守を預かる徳川家首脳部は庄内藩などに命じ、二十五日早朝から三田屋敷を包囲した。同藩屯所に発砲して三田屋敷に逃げ込んだ者の身柄引き渡しを要求するも、交渉は決裂して戦闘状態に入る。そして、三田屋敷は焼失した。

 同日、大目付瀧川具挙(たきがわともたか)が新鋭の歩兵部隊を連れて軍艦に乗り、徳川方による摩藩邸焼き討ちを伝えるために海路大坂へと向かった。

 摩藩討伐を唱える瀧川に刺激され、大坂城内は興奮の坩堝(るつぼ)となる。慶喜もその勢いに押され、ついに京都への進軍を許可する。徳川方は大坂城を出陣し、摩・長州藩の占領下にあった京都に向かって進軍していく。

 江戸からやって来た瀧川は慶喜が起草した「(とうさつ)(ひよう)」を携え、京都南郊の上鳥羽に向かう。瀧川が鳥羽に到着したのは翌年一月三日夕刻のことであり、まもなく鳥羽で幕府軍は摩藩兵と交戦状態に入る。鳥羽で開戦するや、会津藩兵や新撰組が駐屯していた伏見でも戦端が開かれた。鳥羽・伏見の戦いがはじまったのである。

捕縛された覚馬。ついに会津藩は賊軍に落つ


 開戦にならないよう奔走していた覚馬であったが、その努力はついに水泡に帰した。居ても立ってもいられず戦場に向かおうと、迂回するような形で伏見に入ろうとしたが、京都東郊の蹴上(けあげ)の地で摩藩兵に捕えられてしまう。

 捕縛された覚馬は京都二本松の摩藩邸に連行され、邸内の稽古場を改造した獄舎に入れられる。獄舎に収容されたのは覚馬だけではなかった。同じ会津藩士や桑名藩士、幕臣たちもいた。

 覚馬が京都を脱出した頃、会津藩兵は伏見で摩藩兵と激闘を繰り返していたが、戦況は押され気味だった。負傷者も(はなは)だしく、覚馬を高く評価していた大砲奉行の林権助も重傷を負う。大坂に後送された林は、海路江戸に送られる途中、傷が悪化して船中で落命する。

 勝敗を分けたのは、摩・長州藩との軍備の違いだった。軍制改革の立ち遅れが命取りになったのだ。覚馬の努力にも拘らず、軍制改革は思うように進んでいなかった。そして、会津藩は準備が整わないまま摩・長州藩との戦いに突入してしまう。槍隊が重きをなしていた会津藩が洋式銃を装備する摩・長州藩と激突すれば、その結果は火を見るよりも明らかだろう。桑名藩も、会津藩と同様の運命を辿った。

 洋式銃を装備する幕兵にしても、徳川方の戦略の(つたな)さもあり各所で後退を余儀なくされる。鳥羽・伏見の戦いの初日は、摩・長州藩兵の優勢という戦況だった。

 だが、両藩側に有利な戦況を捉えた岩倉具視は大久保利通の要請に応え、急遽開いた総裁・議定・参与から構成される三職会議で、慶喜の討伐、議定の一人である仁和寺宮を征討大将軍に任命することに成功する。この一月三日の夜、摩・長州藩が官軍に、慶喜や会津・桑名藩が賊軍に転落したのである。

 翌四日、仁和寺宮が征討大将軍に任命される。錦旗を掲げて東寺(とうじ)まで進み、慶喜征討の本陣を置いた。形勢を展望していた諸藩は、雪崩(なだれ)を打って官軍となった摩・長州藩側に付く。ここに、大勢は決した。

 会津藩を筆頭に徳川方は各戦線で奮戦するものの、敗色は覆い隠せなかった。六日には、味方と信じていた津藩(藤堂(とうどう)家)からも砲撃を受け、総崩れとなる。

 敗色濃厚のなか、後方で会津藩兵の救助にあたった覚馬の弟三郎も、戦闘に巻き込まれて負傷する。林権助と同じく、海路江戸に戻ったが、その傷が悪化して、二十一歳の生涯を芝新銭座(しばしんせんざ)の会津藩邸で終える。鳥羽・伏見の戦いで、覚馬は恩人の林そして弟を失った。

慶喜、容保を連れて大坂城を密かに脱出


 相次ぐ敗報、そして錦旗が掲げられて朝敵とされたことで、大坂城にいた慶喜は激しく動揺する。
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