『ひと目でわかる「戦前の昭和天皇と皇室」の真実』
[著]水間政憲
[発行]PHP研究所
スムーズな改元
大正十(一九二一)年十一月二十五日、摂政のご大任に就かれた皇太子裕仁親王殿下は、大正天皇が崩御された大正十五(一九二六)年十二月二十五日まで、五年にわたって天皇の代理を務めておられたため、大した混乱もなくスムーズに「昭和」を迎えられることになりました。
当時、宮内大臣一木喜徳郎は万一のときに備え、宮内省において「元号建定」の準備を整えていました。
最終的に宮内省案と内閣案が詳密に精査された結果、「昭和」を撰定し、参考として「元化」「同和」の二案も添付し、起草されました。
改元の決定は、大正十五年十二月二十五日午前六時四十五分から枢密院会議が開催され、副議長・平沼騏一郎を委員長とし、内閣総理大臣以下関係者出席のもと、「昭和」が全会一致で可決されました。内閣は公布することを閣議決定し、若槻礼次郎首相の上奏を天皇がご裁可され、大正十五年十二月二十五日午前十時二十分、詔書にご署名(御名御璽)をなされ、元号が正式に「昭和」と改められ、即日、官報号外として公布されたのです。
大正天皇の崩御から、混乱もなく正式な手続きを経て、わずか八時間五十五分後に元号が改められたことは、摂政の制度が有効に機能したことの表れです。
過去数十億人の国民と百二十五代の天皇陛下によって護られてきた基本的な国の形(「国体」)は、一時代の世論の動向に委ねられるものではありません。やはり伝統を踏まえて未来の国民へ「基本的な国の形」を引き継ぐことが、いま生きている国民一人ひとりの務めなのです。
実際、大正天皇の崩御から一週間後の『アサヒグラフ』昭和二(一九二七)年一月一日号の表紙は、日の丸の弔旗の背景に宮城の写真が使われていますが、同号には「今上皇后両陛下」の写真も掲載されていました(資料)。驚嘆するスピード掲載です。それは、天皇を“象徴”とする「この国の形」を、国民一人ひとりが大事に考えていたことの表れと捉えることができるのです。