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物流は世界史をどう変えたのか
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歴史
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第十三章 イギリスの「茶の文化」はいかにしてつくられたのか

『物流は世界史をどう変えたのか』
[著]玉木俊明 [発行]PHP研究所


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「中国語」という壁


 一七五七年以降、清の外国貿易は公式には広州一港に限定された。それ以外にも民間部門の貿易はいくつもの港でおこなわれていたから、広州は、外国への唯一の「正式な」窓口であったというべきであろう。


 では、現実に広州での貿易はどのように営まれていたのだろうか。


 スウェーデン人の歴史家リサ・ヘルマンによれば、中国政府は広州に四名の通訳しかおかなかった。


 そのため、広州との貿易が増大すると、役人はアシスタントを雇うほかなかった。たとえば、イギリス商人のチャールズ・フレデリク・ノーブルが、「外国語を話せる中国商人はほとんどいなかったので、英語ないしポルトガル語を話すことができる人を雇っていた。だから、フランス人、オランダ人、デンマーク人は、このどちらかの言語を話す必要があった」と述べたこともあった。


 商人は、知っていることを役人に伝え、税関の役人は、すべての商品の価格と量を記録した。最終的には、中国人の役人が絶えず情報の掌握という点で有利な地位にいたのである。さらに、中国政府に有利になるように、通訳がわざと誤訳をすることさえあった。ヨーロッパ人にとって中国語はきわめて難しい言語であり、中国人がヨーロッパの言語を話せたとすればどれだけ楽になるかと考えたヨーロッパ商人も多かった。


 そこで、中国役人からの干渉を避けるために、中国商人とヨーロッパ商人は通訳をできるだけ使わないようにし、共通の言語を創出したのである。その言語とは、中国語やマレー語、ポルトガル語、英語などが混ざった人工的な言語であった。


 ここからわかるように、商業活動においては、中国政府と中国人商人の利益が一致しているわけではなかった。国家の網の目をくぐり、商業を営むという行為は、一八世紀中頃になってもなお続いていたのである。


 清の唯一の外国貿易港と限定される以前から、広州からは、ヨーロッパに向けて茶が輸出されていた。だが、ヨーロッパで茶を大量に消費するのはイギリスくらいであり、あとはロシアも茶を飲む国であったとはいえ、その消費量は一八世紀においては、あまり多かったとは思われない。

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