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戦国武将の意外なウラ事情
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歴史
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第一章 群雄割拠! 戦国の幕開けを担った人々のウラ事情

『戦国武将の意外なウラ事情』
[著]日本博学倶楽部 [発行]PHP研究所


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本当は仲がよかった? 応仁の乱の当事者・山名宗全と細川勝元

 応仁(おうにん)元(一四六七)年に勃発し、以後十一年にわたる応仁の乱は、京都を一面の焼け野原に変えた。

 この大乱で、八代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)を奉じて東軍の大将となったのが管領(かんれい)家の細川勝元(ほそかわかつもと)で、義政の子・義尚(よしひさ)を推して西軍の大将となったのが実力者・山名宗全(やまなそうぜん)である。両軍の旗頭とされたとはいえ、当時、室町幕府の将軍は有名無実で、実権はこの細川勝元と山名宗全が握っていた。その二大実力者が激しい憎悪をむき出しにし、天下を二分する争いを繰り広げたのだ。

 それなら、さぞかしこのふたりはもとから仲が悪かったのだろう……と思うところだが、実は、本来彼らは大変仲がよかった。

 細川勝元は十六歳の若さで管領職に就いたが、前管領の畠山持国(はたけやまもちくに)の勢力が依然として強く、目の上のタンコブだった。そこで畠山氏に対抗しようと、幕府の宿老として発言力を持つ二十六歳年上の山名宗全に近付いたという過去があるのだ。

 このとき宗全はすでに息子の教豊(のりとよ)に家督を譲っており、出家の身だったものの、山名家の実権を握る彼は、喜んで勝元の接近を受け入れる。畠山氏の勢力は、宗全にとっても邪魔だったというわけだ。畠山氏という共通の敵に対抗するため、「敵の敵は味方」という論理からこのときのふたりはひとまず手を握ったのである。

 結束を固めるために、勝元は宗全の娘を妻に迎えた。なかなか子どもが生まれないとなると、勝元は宗全の末子・豊久(とよひさ)を養子にする。婚姻と養子縁組の二重の縁によって、細川家と山名家の結束は堅くなった……かに見えた。

 やがて、ふたりの共通の敵であった畠山氏は内紛によって勢力を失う。そこに将軍家の後継問題が起こると、ふたりの結束に不和が生じるようになる。

 足利義政が弟の義視(よしみ)を次期将軍に推し、勝元をその後見人としたあとで、タイミングの悪いことに義政と妻の日野富子(ひのとみこ)の間に長男・義尚が生まれてしまった。このとき富子が宗全を義尚の後見人にしたために、勝元は義視を、宗全は義尚を次期将軍に推すという対立の構図が生まれたのである。

 さらに両家の対立を深める出来事は続く。文正(ぶんしよう)元(一四六六)年、勝元に初めて実子が生まれた。勝元としては、当然実の子を跡継ぎにしたい。そこで、宗全になんの相談もなく、養子にした宗全の子・豊久を出家させて、実子・政元(まさもと)を跡継ぎにしてしまう。

 息子を勝手に出家させられ、宗全は激怒して豊久を還俗(げんぞく)させた。この一件により、将軍後継問題における対立に加え、両家の私怨も加わり、ふたりの実力者の対立は決定的なものとなった。

 こうした宗全と勝元の対立に畠山家など周辺の御家騒動が相乗りして、戦国時代の幕開けを告げる応仁の乱へと突入していったのだ。

 この応仁の乱では、戦国期の合戦の中で重要な役割を果たす者たちが登場している。乱において両軍とも戦局を打開するため、盗賊や浮浪人を傭兵(ようへい)として起用した。(よろい)(かぶと)をつけずに身軽に走りまわるこの傭兵たちは、やがて「足軽」と呼ばれるようになった。足軽の先駆は平安時代末期からいたが、本格的に登場したのはこの応仁の乱からであったのだ。

 応仁の乱の勃発から六年後、宗全と勝元は相次いで病没したが、乱はその後も五年間つづいていくことになる。

しっかり者の女房だった日野富子が悪女に仕立て上げられた理由とは?

 室町幕府八代将軍・足利義政の正妻・日野富子といえば、応仁の乱を引き起こした悪女として有名だ。

 義政は、富子との間になかなか子が生まれないので、僧籍にいた弟の義視を還俗させて跡継ぎにしようとした。そのとき、「もし、男の子が生まれたらどうするのか」と渋る義視に対し、義政は「もし男の子が生まれてもすぐ出家させ、お前を跡継ぎにする」と約束して還俗を承諾させている。しかし、富子は義尚を産むや、一転して我が子を次期将軍にしようと画策したため、それが応仁の乱の一因となった。

 この一方で、関所で金を取ったり、米相場に手を出すなどして富子は大金を貯め、高利貸しを行う。

 主にこのふたつの行為から富子は悪女とされるのだが、本当にそう呼ばれるに値するほどの悪行を重ねた女性だったのだろうか? 彼女の生涯をふり返ってみよう。

 富子は、十六歳で義政の妻となったときから、厳しい境遇に置かれていた。義政は、乳母の今参局(いまいりのつぼね)と男女の関係を持ち、さらに今参局の息のかかった美女を何人もはべらせていたのである。

 そこで富子は、自身の最初の子が出産直後に死ぬと、今参局に呪咀(じゆそ)の罪をかぶせて流罪とした。この策略も富子が悪女とされる理由のひとつだが、彼女の立場から見れば、追い詰められた境遇を自ら切り開いただけといえよう。

 義政も富子もまだ若く子が生まれる可能性があったにもかかわらず、義視を跡継ぎとしたのも、義政の女関係に原因があったらしい。『美女たちの日本史』(永井路子著、中央公論新社刊)によると、このとき義政の側室のひとりが身籠っていたという指摘がある。側室が男の子を産んで跡継ぎになっては一大事というので、富子も義視を跡継ぎとするのに同意してしまったのではないかというのだ。

 しかし、実子が生まれても夫が義視の後継をあきらめないなかでは、自分が実力をつけて我が子を守るしかない。折しも貨幣経済が急速に発展してきた時代だったので、富子は、賄賂(わいろ)を受け取ったり、味方に付けたい幕府の重臣相手に高利貸しを行うなどして、ひたすら蓄財に励んだ。こうして蓄えられた財産は、現代の価値にしておよそ七〇億円に上ったという。

 こうした事実だけを見れば、権力欲に取り憑かれた守銭奴のように評されがちな富子だが、実はけた金で困窮する天皇家の生活費や幕府財政を援助している。義政が幕府財政の困窮をよそに銀閣寺の建立などで浪費するのに対して、富子はけた金を公共のためにも使っているのだ。

 となると、銀閣建設や酒宴による義政の浪費が非難されず、富子の金けだけが非難されるのは不当とはいえまいか。

 それに『応仁記』の記述には、義政は政治や裁判を富子らに任せっぱなしにしていたとある。こうした女性たちによる政治・裁判を「理非(物事のよしあし)をわきまえず」と非難しているのだが、政務をさぼっている義政の方が非難されるべきであろう。

 富子は、夫が政務をきちんと行わないので、その代行をしたにすぎない。怠け者で頼りない夫の代わりに幕府の政治や経済を動かしていた世話好きでしっかり者の女房なのだ。

 応仁の乱の原因についても、富子の子どもを愛する余りの結果とされてきたが、将軍家だけでなく、幕府を構成する名家のそれぞれで後継者問題が蓄積し、それが将軍家の後継問題をきっかけに爆発した戦乱である。それに、撤退費用を貸し付けるなど、戦いを終わらせるための手を打って実際に乱を終息させたのは富子であるのも事実だ。

 それなのに富子が悪女にされてしまった理由はなんであろうか?

 小林千草氏は『応仁の乱と日野富子』(中央公論新社刊)で、近世の政治事情と儒教道徳を挙げている。『応仁記』が広まる室町後期から江戸初期にかけては、お家騒動を公然と表立てるわけにはいかない。それに、女性は夫に仕えて家を守るものという儒教道徳が加わることで、富子は悪女と評価されたのだという。

 つまり日野富子は、男にとって都合の良い女性像をつくりあげるために悪女に仕立て上げられていったのである。

精力絶倫のあまり妻が何度も代わった

 浄土真宗の本願寺第八代法主・(れんによ)は、第七代法主・存如(ぞんによ)の子として生まれ、長禄(ちようろく)元(一四五七)年に父の跡を継いで以来、精力的に布教活動を行い、親鸞(しんらん)の死後さびれていた本願寺を再興した。文明(ぶんめい)十五(一四八三)年に完成した山科(現・京都市山科区)の本願寺は、堀と土塁を巡らせ、城塞のようだったと伝えられている。

 この如の精力的な活動の背景には、彼の超人的な絶倫ぶりがあった。

 彼は、二十八歳で最初の結婚をしてから八十五歳で亡くなるまでに、五度も結婚し、一三男一四女、計二七人もの子供をけている。末っ子は死の前年の八十四歳で生まれたというから、驚くべき絶倫ぶりだ。

 絶倫とはいっても、彼は浮気は一切していないのがさらに驚嘆すべきところである。彼は常にただひとりの妻を守り、愛し抜く愛妻家でもあった。それがかえってアダとなり、妻たちは出産に疲れて次々に命を落としていったのだから、皮肉な話である。

 最初の妻・如了は十三年間に四男三女、如了の妹で二度目の妻となった祐は三男七女、三度目の妻・如勝は一女、四度目の妻は一男一女を産んで亡くなり、最後の妻・能は五男二女を産んだ。
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