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世紀末の思想 豊かさを求める正当性とは何か
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生き方・教養
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第二章 新時代の学問「バイオエシックス」とは何か

『世紀末の思想 豊かさを求める正当性とは何か』
[著]加藤尚武 [発行]PHP研究所


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比較される「命の重さ」と「社会の重さ」




「バイオエシックス」とは何か

「バイオエシックス」(bioethics)という言葉は、「バイオ」(生命)と「エシックス」(倫理学)を組み合わせてできた新造語である。アメリカで作られて二十年ほどになる。医学の領域を中心として、人間が生命を操作するようになった時代を象徴する言葉だといってもよい。


 五人の心臓病患者にたいして、臓器移植を受ける機会が四人分しかないときに、どのような基準で四人をえらぶか。これはまるで一人の「死すべき者」を決定するのと同じ判断になる。


 回復の見込みのない患者から、生命維持装置を取り外してよいか。患者自身の意志が、前もってはっきりと示されていない場合にも、尊厳死(自然死)を選ぶことが許されるか。


 このような問題を、系統的にまとめて取り扱うのがバイオエシックスである。大学の医学部と一般教育の過程に組み込まれている。アメリカには約四〇〇名の専門家が、大学や研究所に籍を置いている。


 ここには文化の新しい形が芽生えている。ひとつは技術によって人間の可能な行為の幅が広がると、前例のない倫理問題が発生するので、従来の倫理原則をたんに適用するのではなくて、一歩掘り下げて、新しい原則を導き出す必要が生まれたということである。技術の社会化にともなうリスクを処理するシステムのひとつがバイオエシックスであると言ってよい。


 第二に、キリスト教から離れた社会道徳が意識的に作り出されているということである。自殺を他殺と同じくらい厳しく否定するキリスト教の伝統では解釈できない事例が増えた。また、医師はユダヤ教徒で患者はイスラム教徒というような、キリスト教の枠をはみでる事例が増えてきた。これにたいして、意識的に「非宗教的倫理学」(secular ethics)を作り上げていくという姿勢が、西洋文化の中では新しい。


 第三に、医療の目的とする価値が、自明で一義的なものではなくなったという事態がある。古い型の治療の典型は、子供がチフスにかかったという例である。1.子供、2.感染病、3.致命的という条件がそろっている。親は「先生、何としてでも、子供の命だけは救ってやって下さい」と頼むだろう。「命を救う」という一義的な目的があり、親は医師にその目的に向けた行為を「包括的に一任」している。これに対して、新しい医療の型は、老人の心筋梗塞に対して外科手術を選ぶか、内科的な処置を選ぶかという選択が生ずるという事例である。1.高齢者、2.成人病、3.選択可能な措置という条件がそろっている。ここでは医師が患者に、事情を説明して、「どのような措置に同意しますか」とたずねるだろう。これを「インフォームド・コンセント」(情報を与えられた上での同意)という。患者が医師に包括的に一任するのではなくて、医師が患者に「生命の質」(クオリティー・オブ・ライフ)の選択肢を示して、患者が決定する。


 生命をめぐる基本的な条件が変化してきている。それを社会倫理の次元で意識的に処理するシステムのひとつがバイオエシックスである。


「生命至上主義」が矛盾を生み出す時代


 バイオエシックスの文献で、ときおり「ヴァイタリズム」(vitalism)という言葉を見かける。英和辞典には「活力説」という訳語が出ている。生命体の内部には機械力とは根本的に違う「活力」が存在していて、有機体に自律的な調和を作り出すという観念のことである。ところが最近の文献では、「活力説」では誤訳になる用例の方が多い。


 むしろ「生命至上主義」と訳さなくてはならない。「医療と看護の究極目的は患者の生物学的な生命を可能な限り延長するということにある」という観念である。「絶対的延命主義」と訳してもいい。この観念のさまざまな形を、描き出してみよう。一.人工妊娠中絶は禁止されねばならない。二.早産児の治療には全力を尽くし、治療の結果、重度の障害児が生き残る結果になっても、延命をはからなくてはならない。三.回復の見込みのない患者が、極度の痛みのために精神異常となるほどになっても、安楽死は認められない。四.脳死状態にある人は、可能な限り栄養と酸素を補給し、細胞腐敗の開始まで延命をこころみるべきである。人間として生を受けたものすべての命を、いかなる条件、状況においても、いかなる犠牲を払っても、一秒でも長く延命すべきであるという観念を、「ヴァイタリズム」というのである。

「ヴァイタリズム」は人間の生命に関する、もっとも基本的な態度、常識なのであり、これを疑うものは天に唾するものであると言ってもよい。あるいは「もし、このヴァイタリズムの原則をいささかでも限定したり、部分的に否認したりするならば、そのとき人は〈殺す〉ということを、なんらかの意味で正当化しているのだ」という主張も正しい。脳死者から臓器を取り出すことも、ヴァイタリズムの観点からみれば「殺す」ことである。


 問題となるのは、人工妊娠中絶、欠陥新生児の安楽死、成人の主として癌患者の安楽死、脳死者からの臓器摘出である。


 まず人工妊娠中絶について、一つの事実を指摘しておこう。アジア、アフリカの開発途上国の未来を左右するもっとも大きな条件が人口政策にあるという事実である。GNPの成長を人口の増加が上回る国では、貧困からの脱却はありえない。新聞紙上で報道される「東南アジア諸国の目ざましい生活水準の向上」は、経済政策と人口政策の両方が成功したことの結果なのである。開発途上国の運命は、強力な成長政策を遂行する政治力の有無によって決まるが、同時にその政治力の担い手が人口政策に失敗したなら、成長にもかかわらず社会不安の増大という危険な代償を支払わなければならない。


 先進国では「人工妊娠中絶は女性の権利である」という「フェミニズム」の主張が盛んである。「フェミニズム」という言葉も「女性保護主義」から、「女性の権利拡張主義」という意味に変わった。開発途上国では「人工妊娠中絶は国家の要請」である。いずれにしても「生命至上主義」という意味でのヴァイタリズムは否定されている。


 欠陥新生児については、その治療費という観点から考察してみる。たくさんの障害をもった子供が生まれる。たとえば無脳症、脊椎分離、腸管癒着などが併合している例がある。代表的なケースでの費用をアメリカのデータで示すと、最初の手術費が二〇〇〇万円、入院費が一日一五万円で、子供は極度の低知能のままで、人格的な反応を示さないまま五歳で死亡する。このように極度の障害が重なっている場合、生誕直後に安楽死をほどこすべきではないかという意見がだされている。もちろん日本と同様に、アメリカでも医師が独自の判断で、「新生児安楽死」(インファンティサイド、infanticide)をほどこして、母親に「死産」と報告する例の方が多い。


 欠陥新生児の生命を救う技術は向上しているが、重度の障害児を「正常な子供」に治す技術を開発することはほとんど不可能と言ってよい。


 癌患者の安楽死については、鎮痛剤を打つこと自体が、生命を短縮する効果をもつので、ヴァイタリズムを厳密に適用すれば、どんな痛みに対しても放置すべきだという結論になる。この立場をとる人は絶無と言ってよいほどで、鎮痛剤を打ち、栄養を補給するが、積極的な治療はしないで、あえて死期を遅らせることはしないという「消極的安楽死」ならば、事実上、ヴァチカンの教皇庁も認めている。その限りですでに、厳密なヴァイタリズムは否認されている。


 医学的には、植物状態の患者は脳幹が機能しているから生者であり、脳死者は死者である。植物状態のカレンさんに対してすら、「神の意志に背いて、機械によって延命を強いられるよりは、尊厳のある死を迎えさせてやって欲しい」とその父親は願った。この父親は毎日、二回カレンさんを見舞うという日課を欠かさなかった人で、彼の愛情を疑う者はいない。


 脳死者に生活反応を維持する技術が発達すれば、その心臓の鼓動のやむときは、いつまでもやって来ないということになるかもしれない。脳死者を半永久的に動かす技術ができたら、どうだろう。ヴァイタリズムに則って、いつまでも装置を動かし続けるべきなのだろうか。


 ヴァイタリズムに対する否認の動きは、まだ人格とはいえない、たんなる生命体に対して、人格としての母は決定権を行使してよいという「親の自己決定権」に基づく主張、すべての人間としての生命体を絶対的に延命する費用の負担に文明社会は耐えられないし、延命のための費用を公共的に負担すべき理由はないという功利主義的主張、機械による人工的な延命は「神の意志」に背く人間のおごりであると言う宗教的、ないしは「自然的な死」を求める自然主義的な主張、両者を総合した伝統主義的な主張から生まれてきている。


「生かすこと」と「殺すこと」の判断を迫られる人間社会


 胎児、新生児に対しては親の決定権を尊重し、成人の安楽死と脳死については当人の意志を尊重し、あらかじめ意志決定を表明してIDカードのようなものに記入しておくことにする。延命する場合もあれば、しない場合もあるという結果になる。残る論点は費用の問題である。各自の意志に従って、ある親は無脳症の子を育て、ある老人は脳死状態のままで生体活動を維持することを望むかもしれないが、その費用の負担に社会が耐えられないなら、個人主義的ヴァイタリズムは「不可能」という理由で否定されることになる。


 延命の効率を、費用と効果という観点で評価する技術、すなわちテクノロジー・アセスメントの手法が洗練の度を高めているが、いまはごく素朴に考えてみよう。患者一人を一年間延命させるための費用は、平均寿命が高まり、医療技術が発達するにつれてますます高くなる。グラフの横軸に延命の時間をとり、縦軸に費用をとれば、一年間という底辺の右端にたつ延命の費用はだんだん大きくなる。費用対効果を示す三角形はだんだん縦に細長くなる。その三角形をつなげれば、ゆるやかなカーブがだんだん上がっていき、ついにはカーブがほとんど垂直に上に延びる形になる。一年間の延命に無限の費用がかかることになる。


 衛生状態が改善される、予防医学が発達する、そして感染病への人類の勝利の進軍が続く。これが効率のよい、ゆるやかなカープの古き良き時代である。死亡率順位の上位を占める病気の中心が感染病から、成人病に移ると、費用対効果の歩みは渋くなる。大きな費用で小さな効果というドロヌマ時代が始まる。


 しかも、医療によって延命された生命が、健康で生き生きしているとは限らない。無数の半病人を作り出しながら、医療制度は全体としては寿命を延ばしている。つまり生命の質を犠牲にして、生命の量を増やしているのが、現代の医療である。


 GNPに占める医療費の率が、アメリカで九%、日本で七%である。日本にはまだ余力もあり、世界一の長寿国である。数字の上でアイスランドが日本の上にきたところで問題はない。アイスランドは人口わずか二四万人という小都市並みの規模である。日本と比較するのが、おかしい。


 ところが寿命の延び方が、頭打ちの様相を呈している。八十歳代の人口はじりじり増えるが、九十歳代はあまり変わらず、百歳代ではほとんど進歩が見られない。長寿化するということは、最高年齢もまん中の年齢も延びて行くのではない。最高長寿者が二百歳になったり、三百歳になったりはしないのである。八十歳代という年齢層に死亡年齢が固まってくる。つまり自然な延命は、だいたい行けるところまでほとんど行き着いて、これ以上の平均的な延命は難しくなってきている。人類は進歩の途上にあるのではなく、進歩の臨界におかれているのである。


 延命の効率と同じ形のカーブに、農業の生産性がある。一トンの小麦、またはそれに匹敵する食料を作り出すのに、どのくらいの費用が必要かをグラフにあらわせば、やはりゆるいカーブが現代の先端農業で天井に向かう形になる。もしも「費用」に環境を悪化させることへの対策費用を加算するとしよう。ブラジルで森林を破壊して畑を作っても、環境へのマイナス分を考えると、ずいぶん「にがい米」を作る結果になるだろう。


 費用対効果のカーブではないが、おなじく歴史的な進歩の終わりを告げるカーブがある。人口と食料、エネルギー消費量、情報の量である。人口は西暦二〇〇〇年頃に、完全に天井向きになると思われていた。餓死者の大量発生は避けられないと思われた。ところが中国とインドの人口政策が効果をあらわしたので、絶対的な危機を回避する見込みも出てきた。エネルギーには、核融合反応による発電が実用化されて、そこにバトンが渡されるまで、石油と原子力発電で一時しのぎをするという危険な戦略が立てられている。情報はそれを有機化して、圧縮する情報処理の技術の開発に向かう。


 すると、医療費の天井向きカーブはどうなるのだろう。やはり全体として、需要にたいして縮小することになるとすれば、どこかで医療を停止するという決定を人間が下すことになる。


 その基準は、いやでも決めなくてはならない。欠陥新生児に向かって「生きない方が君のためになるよ」と言うのだとすれば、それは「たんなる生命」よりも、「生命の質」を重視するからであろう。もはや苦痛しかない人生に別れを告げた方がよいという判断も、「生命の質」を拠りどころにしている。脳死状態になって、たんに生理機能の一部を保ったとしても、それは「生きること」ではないという判断も、「生命の質」に基づく判断である。「ヴァイタリズムから生命の質へ」と時代の流れを捉えても、大局的に間違いとは言えないだろう。


「生命の質」とは何かという新しい問題


 男女の産み分けが話題になったとき、「親の好みで子供を選ぶのは、神への冒瀆だ」という意見があった。生命の質、価値、性質を評価して、良い点数を取ったものに生存の権利を与えるという思想は、「優秀なアーリア民族が劣等民族を絶滅してよい」というヒットラー主義と同じであるという批判がある。


 優生主義の疑いを受ける立場に動物保護論者の一部も含まれる。たとえばこういう主張がある。「イルカや鯨は極めて知能の高い動物である。このような動物を、食料にするということは、食人にも似た野蛮な行為であって、食料にするのだから牛を食べるのと同じだと、その野蛮人が主張したとしても、文明人が耳を傾けるべきではない」というのである。生命の質が「知能」で測られるとしたら、イルカより知能の低い人間の子供はどうなるのだろう。

「ヴァイタリズムから生命の質へ」という転換が、人類の基本的な倫理となりうるとしたら、「生命の質とはなにか」という新しい問いに、未来の倫理性の土台となりうるほどの堅固な答えが要求される。


死の冒険を避けられなくなった人類




「一個の生命」と人類の複雑な関係


 バイオエシックスには、生存権の発生と消滅という二つの時をはさんで、中絶、欠陥新生児、安楽死、臓器移植という四つの大きな問題がある。問題はすべて「殺」という行為の正当化の限界を明らかにするという構造をもっている。妊娠後、何週までなら中絶という「殺」がゆるされるか。人間としては生きていけない無脳症のような重度の新生障害児はどうしても生かさねばならないのか。激しい苦痛にさいなまれる不治の病人が「死なせてくれ」と頼んだなら、医師はその頼みを引き受けてよいか。脳死の判定を受けた人の臓器を生きたまま取り出してよいか。これらはすべて医師の選択可能な行為によって生存のありかたに死に向かう不可逆の変化が起こるという意味では「殺」であるといえる。


 医療技術の開発費を国家が癌研究から取り上げて、心臓病研究に配分したとする。癌の体質をもつ私はその配分の結果三十年早く死ぬ。直接的な因果関係はないが、私は医療行政によって「殺」をこうむることになる。


 脳死者といえども、無限に延命させる、医療費・医療開発費は無限に投入するという方針にすれば問題はない。「一個の生命は地球よりも重い。一秒の延命に巨万の富を費やして当然である」というのが生命至上主義の帰結だとすると、人類は生命至上主義に耐えられない。直接的な生命至上主義をどこかで制限しなければならない限界があるとしたら、それは「殺」の正当化という構造にならざるをえない。それは極めて危険な人類始まって以来の知的冒険なのである。


ともに歩む道を失った自由と平等と博愛


 問題そのものは一〇〇〇メートルの深さの深淵である。バイオエシックスの文献はその深淵に一メートルの土を投げ入れるような応急処置なのだが、論文をよくみれば深淵の影ははっきりとみてとれる(『バイオエシックスの基礎』東海大学出版会、所収)。


 フリードの「医療における平等と権利」は「利用できる最高の治療を平等に受ける権利がある」という思想を論駁したものである。これだけでも日本では反感を買いそうだが、さらに悪いことに「貧乏人に高額の治療を受けさせるなんてとんでもない」という自由主義右派の平等主義左派への感情的な反発をむき出しにしている。

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