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世紀末の思想 豊かさを求める正当性とは何か
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生き方・教養
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第三章 戦争と平和

『世紀末の思想 豊かさを求める正当性とは何か』
[著]加藤尚武 [発行]PHP研究所


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「戦争の正義」とは何か




新しいものが旧いものを裁いた日


 精神史の大きな刻み目には、必ずと言っていいほど、冤罪がある。ギリシア世界に「精神」の誕生を告げたソクラテスは、毒杯を仰いだ。「神の国は近づけり」と叫んでキリスト教の創始者となった青年は、十字架に磔にされ、後にイエズス・クリストゥスと呼ばれるにいたった。ガリレオ・ガリレイの冤罪が彼を直接に死に至らしめなかったと言って、彼の罪、すなわち、思想史上の意義を軽視する理由にはならない。近代科学の生誕はガリレイの冤罪によって告知されたのである。


 ギリシアの「精神」、キリスト教、近代科学と列挙すれば、これは思想史の三大項目と言っていいほどの重要さをもっている。それらの歴史的誕生の日付は、いずれもその創始者の冤罪によって刻まれている。(ふる)いものが新しいものを裁いたのである。「裁く」とは、主として、そうしたものなのだ。制度の自己同一性を維持する反応が、すなわち生物学的な適応や免疫と同様に、他なるもの・異なるものを排除する営みが「裁く」ことだとすれば、科学革命を含めて精神革命の時代に、「裁く」ことは歴史そのものの悲劇性を自己同一性の裂け目としてさらけ出す。旧いものが新しいものを裁いたのは、旧いものの側に権力があったからである。権力そのものが新しいものの側に立つなら、新しいものが旧いものを裁くという形態が生ずるであろう。


 一五三五年七月六日、ガリレイの生まれるおよそ二十九年前に、トーマス・モアも冤罪で処刑されている。離婚問題でローマ教会から離脱したヘンリー八世に対する叛逆の罪に問われ、斬首されている。この冤罪はどのような精神史的意義をわれわれに伝えているのか。ギリシア精神(ソクラテス)、キリスト教(イエス)、近代科学(ガリレイ)と並んで、精神史のどのような区分に呼応するのか。ここでは、ひとまず新しいものが旧いものを裁いた、と言ってよい。国家を超える教会の理念を奉じたモアを国家の絶対性を確立する結果になったヘンリー八世が裁いた。「最後の中世人」モアを、「主権国家の最初の元首」ヘンリー八世が裁いた。


国家が主権をもったとき、戦争状態が始まる


 離婚の自由を主張したミルトンであったならば、ヘンリー八世の弁護役が果たせたであろうに、あいにくモアの結婚観は古風に過ぎた。『ユートピア』と誤読されたままに多くのもじりまで作られている『ユトーピア』でも、モアは性風俗の乱れに対して内心では批判的であったのだと私は思う。風俗だけではない。同時代の文化のほとんどすべてにわたってモアは深い祈りのようなものを背景にした批判的留保を示していた。彼は女婿のローパーにこう語ったという。

「もし三つのことが、キリスト教社会で確立されるならば、私はズックの袋に詰め込まれて、今直ぐにテムズ川に投げ込まれても悔いないだろう。第一は、キリスト教徒の国王の大方が血なまぐさい戦争をしているが、彼らがすべて一つの普遍的な平和を保つようになること、第二は、キリストの教会が現在多くの誤謬や異端に悩まされているが、それが完全な宗教的統一の状態に置かれること、第三は、今や、王の結婚問題がやかましくなってきたが、それが神の栄光と関係者すべての安心のために、めでたく結着する、ということなのだ」(R・W・チェンバーズ『トマス・モアの生涯』門間都喜郎訳、大和書房、二〇一頁、および塚田富治『トマス・モアの政治思想』木鐸社、三一三頁)


 国家間の平和、教会の統一と並んで王の結婚問題が挙げられるのは、素人目には均衡を欠くように見える。いくら大事件とは言っても「結婚」は王家の私事ではないか。──しかし、その私事は私事にはとどまらなかった。歴史の結末を知るわれわれから見ると、モアの三大問題が、そのまま近代史の運命を描き出しているように思われる。結婚問題を解決するために、ヘンリーは教会の統一を破壊した。国家と国家は公分母を失って不可通約的となった。普遍教会を失った各国は平和の拠り所を失ってしまった。ダントレーヴは、ヘンリーの制定した二大文書「上告法(Statute of Appeals, 1533)と首長令(Act of Supremacy, 1534)」の背後にある考え方を次のように説明している。

「何よりも大切なことは、たとえキリスト教世界の統一性を破壊し、また中世人の目から見て教会の統一性の必要な条件(カウンターパート)と見られていた権力の〔聖俗〕二元論をも永久に破壊するというような犠牲を払うことになっても、とにかく社会の単一性を防衛することであった」(A・P・ダントレーヴ『国家とは何か』石上良平訳、みすず書房、一六四頁)

「上告法」とは、婚姻問題について英国の教会からローマに対して上訴することを禁ずる法律である。この法律の前文には「このイングランドの王国は一個の帝国である」と謳われ、国家の教会からの自立が宣せられている。


 一五三一年、ヘンリーが「教会の最高首長」であることを英国の聖職者全体に求めた時、反対意見との妥協の結果「キリストの法の許す限りにおいて」という条件が付された。その妥協条件を削除して議会で成立した(一五三四年秋)のが、「首長令」である。

「国王は当然英国教会の首長であり、またそうあらねばならない。わが国の僧侶達もそれを僧官会議において承認している。しかしなお、その点を確認するために、そして英王国におけるキリスト教の功徳を増大させ、従来国内に行われた罪過、異端、その他の無法・悪弊を一掃するために、本議会の権限によって、次の法令を定める。現国王とそれを相続継承する歴代の王は、英国教会(Anglicana Ecclesia)のこの世における唯一の首長と解せられ、承認され、称呼されるべきである」(村川堅太郎・江上波夫・林健太郎編『史料世界史』山川出版社、下巻、一九頁)


 これと同時に「叛逆罪法」も成立している。またすでに「王位継承法」(同年春)が成立して、ヘンリーと二度目の妻アンとの間の子に、「正当の嫡子」としての王位継承権が保証されていた。この法律なくしては、エリザベス一世の王位はありえなかったわけである。

「王位継承法」への宣誓を要求された最初の平信徒のモアは「附属の宣誓文をこの形では認められない」と拒否し、「叛逆罪」に問われ、処刑されることになった。このときのモアの思想を沢田昭夫氏は、

 実定法秩序の権威と安定を願いつつも、真理と信ずる言論に対する自由の保証をあくまで主張し、


  国民法を尊重しつつも、公会議の同意により代表される超国家的『キリスト教社会』の普遍法をその規制原理とみなし、


  人法への忠誠を肯定し乍らも、更に之を神法への忠誠に従属せしめる法思想」と要約している(澤田昭夫『トーマス・モア』有斐閣、五六頁)。


 トーマス・モアの冤罪死は、国民国家の普遍教会からの自立、すなわち、主権国家の成立を告げる出来事である。この国家はホッブスによって、私人の間の戦争状態を終結させるものと規定された。しかし、ホッブスの自然法の根底におかれた「平和」は、私人間の平和、すなわち私闘の禁止にすぎない。個人を戦争から脱却させる当の国家と国家との間には、それらが主権を有することによって、原理的な「戦争状態」がある。「人間が人間に対して狼である」自然状態を解決するために、「国家が国家にたいして狼である」世界が作り出される。それが近代世界なのである。現実の国家間の戦闘は、この原理的な「戦争状態」の現実化にほかならない。戦争史の碩学マイケル・ハワードが言うように「主権国家から成るシステムにおいては、戦争は固有な要素」(M・ハワード『戦争と知識人』奥村房夫訳、原書房、一九九頁)なのである。


キリスト教が形成した「正義の戦争」という観念


 現実の歴史的過程としては、諸国家は様々な形で普遍教会から自立していった。「教皇のバビロン捕囚」(一三〇九─七七年)以来、フランスではカトリック教会が教皇権から離れて王権に服するようになっていた。ドイツではプロテスタンティズムが反教皇・反皇帝の勢力から支持されて、教会に対する国家の優位を確立する上で決定的な役割を果たしたが、ビスマルクの「教皇至上主義(ウルトラ・モンタニスム)」に対する「文化闘争」(一八七一─八八年)に至る長いしこりが残った。しかし、いずれにせよ、国民国家が普遍教会から自立し、主権国家となった上で、その地上を支配する国家の下に「信教の自由」(複数の教会の共存)が保証されるという経過を辿る。キリスト教はいずれの宗派もいちじるしく内面化され、「神のものとカイゼルのもの」の分離という聖書解釈を、近代史が確立する形となる。


 国家から、いわば目の上の瘤が除かれて、国家の上には何も残されていないのか、と言えば、そうではない。キリスト教は国家に「正義の戦争」という自然法的な観念を残していった。戦争には武器と正義が必要なのである。


 キリスト教的戦争観には、三種のものがあるとよく言われる。十字軍─聖戦の伝統、正義の戦争の伝統、平和主義の伝統である。(Paskings, B.and Dockrill, M., The Ethics of War, Duckworth, 1979, p.193.)ただし、この三種が歴史的につねに並行していたかと言えば、そうではなさそうである。概略的に言えば、原始キリスト教団では絶対的平和主義の立場がとられていたが、五世紀にキリスト教が国教化されて以後、聖戦と正義の戦争という観念が確定されていき、やがては国際法の観念に流れこんでいく。

「五世紀以前、ほとんどすべてのキリスト教の著述家は、軍務に服することが、キリスト教の原理と両立できないのは、当然だと思っていた。『主は、おだやかな(disarming)ペテロの姿をかりて、あらゆる兵士から帯刀を外したまう』(テルトリアヌス)。兵士がキリスト教に改宗したとなれば、彼は軍務を放棄するものと思われていた。『われらは一たび信仰を抱き、洗礼を受けたからには、多くの者が為した如く、直ちに軍務を棄てるか、禁じられたいかなる振舞いをも避けるために、あらゆる種類の口実を用いねばならぬ』(テルトリアヌス)。改宗した兵士で殉教したものがいることは、キリスト教徒と非キリスト教徒の両方の著述家たちが記録を残している」(Bailey, S.D., Prohibitionsand Restraints in War, Oxford, 1972, p.2以下「ベイリー」と略記)


 原始キリスト教から護教家の時代にいたる間、キリスト教徒を内面からおびやかした事実は、予定されていたキリストの再臨が「延期」されたことと、ローマ皇帝がキリスト教に改宗したこととであった。国教化されたキリスト教という新しい時代に呼応した最初の思想家がミラノ司教アンブロジウス(三三九─三九七年)であり、その弟子アウグスティヌス(三五四─四三〇年)であった。アンブロジウスは、もともと法律家であり検事総長といった役職にあった。信徒に乞われて、受洗以前にミラノ司教に選ばれるという異例の経歴をもっている。火を噴く雄弁と「神の国を実現するためには、悪魔の武器を用いることも厭わなかった」(C・N・コクレイン)と言われる辣腕ぶりで、教会の力を確実に伸ばしていった。彼は「正義を非常に強調した」(ベイリー、五頁)そして「正義」の成り立つ場合には、従軍の必要性を認めた。


 アンブロジウスの熱弁に心ひかれた修辞学の元教師、アウグスティヌスの基本的信念を、「教会は全体としての人間社会と共存してほしい」(P・ブラウン)ということだと言う人もいる。彼は世俗の権力に反逆したり、世俗的生活から離反した、キリスト教の旧い型──それは多く「異端」という形をとっていた──を、自力完全主義のおごりと見て斥け、信仰と生活を和解させ、宗教の近代化されやすい形をつくり上げた。「彼の著作の中で、彼はくりかえして、もしも戦闘することがキリスト教の教えに背くのであれば、キリストは彼の出会った兵士たちに武器を捨てるように言いつけたはずなのだ、と主張している」(ベイリー、六頁)。


「正義の戦争」であるための条件


 トマス・アクィナス(一二二五─七四年)は、このアウグスティヌスの立場を敷衍して、正義の戦争の条件を次の三項に要約する。


  戦争行使の命令を下す主権の権威。宣戦布告は私的個人の仕事ではない。なぜなら、個人は審廷を通じて自分の権利の償還を求めることができるからである。


  正当な事由が要求される。すなわち、攻撃を受けるものが、何らかの過失によって攻撃に価するものであることが要求される。


  交戦者は、正当な意図をもつことが必要である。すなわち、善の促進もしくは悪の回避を意図していることが必要である。(Thomas Aquinas, Summa Theologiae, Blackfriars, Vol.35, pp.80-83.なおベイリー九頁参照)


 カジェタン(Thomas de Vio Cajetan, 1469-1534)、ヴィトリア(Francisco de Vitoria, 1480-1546)、スアレス(Francisco Suárez, 1548-1617)等の論議によって、「正義の戦争」の条件はさらに洗練されたものとなっていった。スアレスより若干古い「宗教改革」の時代のものを、ベイリーが挙げている(ベイリー一五頁以下)。


  戦争は合法的権威によってのみ決定されうる。


  戦争手段に訴えてよいのは、特定の過失が行われた後のみであって、しかもその目的が損失の償還、不法に捕えられたものの回復をなす場合である。


  その意図は、善の促進もしくは悪の回避でなければならない。


  一方的な自己防衛でない場合の戦争においては、勝利への合理的な見通しがなければならない。


  力の行使に訴える以前に、平和的な手段で齟齬を解消するためのあらゆる努力がなされねばならない。


  非戦闘員(the innocent)は直接の攻撃を免れるのでなければならない。


  力が大きさにおいて、応分の度を超えて用いられてはならない。


 欧米では、広義での自衛権・自政権は非常に根源的なものだと思われているから、いわゆる「絶対的平和主義」の主張は比較的少ない。右に挙げた七条は、過去の観念形態の標本というよりはむしろ、「正義の戦争」の現在においても信奉されている標準的観念であろう。問題はその第六項である。


「非戦闘員の殺傷」を当然視する現代の戦争の正義性


 第二次世界大戦が戦争観に与えた最大の変化は、もはや非戦闘員の殺傷が不可避となり、それを「当然」と見なす風潮が生じたことであろう。第二次世界大戦の勃発とほぼ同時に非戦闘員の殺傷は多くの戦術目標となっていたが、タテマエ上は双方ともにそれを非としていた。スペインの古都ゲルニカへの空爆(一九三七年四月二十七日)は世界中の憤激を呼んだ。戦線の拡大とともに、都市への空爆はほとんど戦争の主たる戦術となったかの観があり、アメリカの対日戦略では、空爆こそが戦争を終結させる「決め手」だと思われていた。その最終的な帰結が広島、長崎への原子爆弾の投下である。第二次大戦の終り頃には戦争当事者の双方が非戦闘員の殺傷を当然視するという結果になっていた。戦争の初期段階では、非戦闘員の殺傷を回避することが「正義の戦争」のための不可欠の条件だとみなされていたということ自体が、ほとんど忘れ去られようとしていた。


 警告を発したのはイギリスの哲学者エリザベス・アンスコム女史である。彼女の最初の警告は、一九三九年に書かれた「現在の戦争の正義性の吟味」である(Anscombe, G.E.M., Ethics, Religion and Politics, B.Blackwell, 1981.)。第二次世界大戦は、「第一次大戦のように明確なる一瞬を画して始まったものではなく」(A.J.P.テイラー『戦争はなぜ起こるか』古藤晃訳、新評論、一五〇頁)、だんだんに交戦国が増えていくという形をとった。この一九三九年の時点では英・仏・独の間には戦争が行われていたが、アメリカはまだ一九三五年の中立法の拘束下にあった。「一九三九年、戦争の勃発に際して、合衆国大統領は、非戦闘員(civil populations)が攻撃されないよう、交戦諸国からの保証を要請した」(Anscombe, G.E.M., Mr. Truman's Degree, 1957.「トルーマン氏の位」上記論文集六二頁)。このルーズベルトの要請からほぼ正確に六年を経て、トルーマンが明らかに「非戦闘員への攻撃」を含む原爆投下を決定している。


 アンスコムは、アメリカが態度を変えたからという理由で非難しているのではない。またアメリカが大量殺戮のための非人道的兵器を用いたことを弾劾しているのでもない。彼女は「正義の戦争」という観念を支持して、戦争においては「誤って正義(rights)を攻撃している人間が、その正義が他の方法では守られない場合、その正義を守るために殺されるのは当然である」(同七七頁)と言う。要するに彼女は人道主義者でも、平和主義者でもない。いわば「正義の戦争主義者」なのだ。


意図の有無によって問われる罪


 ただし、単純に「自己防衛のためには殺人が許される」と主張しているのではない。

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