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コミンテルンの謀略と日本の敗戦
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歴史
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第五章 「保守自由主義」vs「右翼全体主義」「左翼全体主義」

『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』
[著]江崎道朗 [発行]PHP研究所


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戦前日本の構図をいかに見るべきか

「戦前の日本は右傾化したために軍国主義に染まって戦争に引きずり込まれ、左翼は戦争を止めようとして弾圧された」とよくいわれる。


 だが第四章で見てきたように、支那事変の長期化を画策し、近衛新体制と大政翼賛会の旗を振って、日本を、まるでスターリンかヒトラー支配下のような全体主義体制にする動きを担っていたのは、左翼知識人と「革新」官僚たちであった。


 この時期の左翼は、ある意味でわかりやすい。ソ連が主導するコミンテルン(共産主義インターナショナル)の影響力が圧倒的に強かったからである。


 まだ、ソ連国内での粛清(共産党の「敵」と認定されたロシア国民が次々と殺害されていた)や飢餓輸出(ホロドモール。自国民の食糧までを輸出に回して外貨を獲得したため、飢饉で四百万人~千四百万人が死亡した)などの実態が明らかにされず、プロパガンダによって共産主義化と計画経済による大躍進ばかりが喧伝されたので、ソ連型共産主義に憧れを抱く人々が多かった。


 さらに、一九二九年からの大恐慌によって、あたかもマルクスの予言のごとく、資本主義が終焉に向かってその矛盾を拡大させているように見えたため、共産主義社会を建設しなければ救われないと信じ込む人々も多かったし、計画経済的な統制主義を導入せねばならないと考える人も顕著に増加した。


 もっとも、第三章で見たように、共産主義の支持者には、公然の党員、非公然の党員、フェロートラベラーズ(同伴者)、オポチュニスト(機会主義者)、デュープス(騙されやすい人)という違いはあったが。


 一方、わかりづらいのは、「保守」の側である。


 われわれが戦前期の日本を見誤る大きな原因は、「保守」側をどう分類するかという点で、混乱しているためだ。


 あえてわかりやすく二分するならば、戦前の日本には、「保守自由主義」ともいうべき思想の持ち主と、「右翼全体主義」ともいうべき思想の持ち主がいたのである。


 本来、大日本帝国憲法体制は、前者の「保守自由主義」に立脚すべきものであった。なにしろ、明治天皇の「五箇条の御誓文」は、「万機公論に決すべし」とあるように自由主義的理想を掲げているのだから(そのことについては、本章の後半でも詳述したい)。


 これまで本書で言及してきた福沢諭吉や吉野作造、佐々木惣一、さらには「天皇機関説」を唱えた美濃部達吉らは、この「保守自由主義」の典型的な論者だといえよう。


 一方、「右翼全体主義」者たちは、本来、帝国憲法体制の主柱たるべき「保守自由主義」を奉じる人々に対してさえ、「社会主義者」「自由主義者」などのレッテル貼りをして弾圧した。美濃部達吉の「天皇機関説」を排撃したのも、彼らである。


 これまで本書に出てきた人物でいえば、森戸事件で学問の自由を圧迫した上杉慎吉、高度国防国家をめざした陸軍(とりわけ統制派)の人々、さらに北一輝などは、この「右翼全体主義」に区分されよう。

「戦前の日本は右翼に牛耳られていた」という言い方がよくあるが、この「右翼」は正確にいえば「右翼全体主義」を指しているのである。しかもその中に、コミンテルンにシンパシーを感じる「左翼全体主義者=共産主義者」や、一皮むけば真っ赤な偽装右翼も多数紛れ込んでいたから、なお状況が複雑となる。


 つまり、「右翼全体主義者」と「左翼全体主義者」が結びついて(というより、「右翼全体主義者」の動きに「左翼全体主義者」がつけこんで)、大政翼賛会などをつくり、大日本帝国憲法体制を破壊した。昭和初期は、議会制民主主義と資本主義を敵視する社会主義に共感を覚えた「右と左の全体主義的エリート」たちによって、「保守自由主義」たるべき大日本帝国憲法体制が損なわれていった時代と見るべきだろう。


天皇に政治責任を押し付けた「天皇主権説」の問題点


 ここで「天皇機関説」について簡単に説明しておきたい。大日本帝国憲法では、「天皇は統治権の総攬者」であって「主権者」とは書いていない。


 その意味は、天皇が統治権を持っているものの、実際の政治は、選挙による議会制民主主義のもとで、政府と議会が自由活発な論議の中で行ない、その責任は、政府が引き受けるということである。


 美濃部博士の主張した「天皇機関説」とは、天皇もまた国家という法人格において「統治権の総攬者」という役割を担うのであって、「政治的責任を負うことはない」という意味なのだ。もっといえば、政治責任は、政府が負うのであって、天皇が政治責任を追及されることはない、という意味である。


 ところが、「天皇主権説」を唱えた上杉慎吉らは、政治はすべて天皇の名のもとで行なわれるのであって、その責任も天皇が負うべきだということを結果的に主張したのである。そして、この「天皇主権説」に基づいて戦後、天皇の「戦争責任」が追及されることになった。


 言い換えれば、「天皇主権説」は、政府の「政治責任」を、天皇に押し付ける学説なのだ。そしてこの「天皇主権説」に基づいて大政翼賛会は創設され、議会制民主主義が否定されてしまったことは前述したとおりだ。


 保守系のあいだでも、「天皇機関説」と「天皇主権説」について誤解している人が多いように見受けられるので、あえて補足しておく。


 このように、大日本帝国憲法が規定した議会制民主主義を否定して、統制主義的な国家体制(高度国防国家など)をめざし、大政翼賛会のような運動を推し進めたのが、「右翼全体主義」であり、それに乗じて背後で暗躍したのが「左翼全体主義」であった。


 そして、こうした大日本帝国憲法の理念を否定する動きに対して迎合した憲法学者が宮澤俊義であり、敢然と立ち向かったのが佐々木惣一であった。


なぜ戦前日本の「保守の二分化」が見えづらいか


 あらためて整理するならば、戦前の日本の「保守派」の内実は、大日本帝国憲法の理念を尊重し、議会制民主主義と自由主義を守ろうとする「保守自由主義」と、大日本帝国憲法の理念を損ない、社会主義に基づいて「全体主義」を志向した「右翼全体主義」に分裂していたのである。


 ただし厄介なのは、戦前の様々な論者の中で、この二つの流れが入り交じっているケースもあることだ。


 たとえば、「言論の自由」を尊重しているのに自由主義者に対する排撃に加担したり、資本主義を認めているのに深刻な格差是正はなんとかしたいという思いから社会主義に共鳴したりという具合に、論者各々の議論が十分に区別されていない場合も多い。それゆえ、「保守自由主義」と「右翼全体主義」を厳密に色分けすることは、一定の困難も伴う。


 はっきりしているのは、「大日本帝国憲法があったから全体主義になった」のではなく、「官僚やエリートたちが大日本帝国憲法を敵視するようになったから全体主義になった」ことである。にもかかわらず戦後のGHQの思想統制や左翼勢力のプロパガンダにより、戦後の日本人は、「大日本帝国憲法のせいで日本が戦争に突入した」と思わされてしまっている。それゆえ、戦前の日本社会の「保守」勢力が、「保守自由主義」と「右翼全体主義」に二分されていたことが見えづらくなっている。


 この両者の違いは、どのようなものであったのか。


 そして本来、帝国憲法体制の守護者たるべき「保守自由主義者」たちは、戦前期に何を主張していたのか。


 これらを明らかにするべく本章では、昭和十年代に、「左翼」勢力や「右翼全体主義」勢力が進める統制主義化・全体主義化の動きに敢然と抵抗した「保守自由主義」の人々を軸に置いて見ていくこととする。


 一人は小田村寅二郎。吉田松陰の妹の曾孫にあたる。小田村は、「真に日本を守るための学問とは何か」という問題意識から、支那事変長期化や近衛新体制を批判する論陣を張り続けた。


 もう一人は山本勝市。本章で扱う昭和十年代半ばには、文部省国民精神文化研究所所員として、研究生の指導にあたっていた。小田村らの活動のよき理解者であり援助者でもあった山本は、昭和研究会が主導した計画経済への動きを真っ向から批判した。


 彼ら、戦前の「保守自由主義者」たちの戦いは、近年、再評価の動きもあるが、基本的に歴史から消され、忘れられてきたといえよう。果たして彼らは、どのような相手と、どのように戦ったのか。


小田村寅二郎が見抜いた東大法学部の問題


 小田村寅二郎は、一九一四年(大正三年)、東京都に生まれている。曾祖父は、吉田松陰の妹を娶った()(とり)(もと)(ひこ)(小田村伊之助・文助)である。学習院初等科、東京府立一中を経て、一九三三年(昭和八年)に東京大学教養部にあたる、第一高等学校に入学する(中学卒業直前に肋膜炎を患い、二年間療養生活を送ったのちの入学)。「日本文化の精神伝統を学びたい」という思いから、一高では「一高昭信会」に入った。

「一高昭信会」のリーダーは東大法学部に在学中の田所広泰(その後、内務大臣秘書官補佐)で、三井(こう)()、松本彦次郎、蓑田胸喜、松田福松らの指導を受けつつ、黒上(まさ)(いち)(ろう)『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』、三井甲之『明治天皇御集研究』などを学んだ。明治以降の「日本の伝統」を蔑視するアカデミズムの風潮に抵抗し、聖徳太子の十七条憲法や仏教思想、日本精神史、明治天皇と憲政史などを学ぶことを通じて、日本型の保守主義についての勉強を行なっていたのである。


 三井甲之は、次の短歌を詠んだ人物として有名だ。



 ますらをの悲しきいのち積み重ね積み重ねまもる大和島根を



 小田村はその後、一年間の浪人生活を経て、一九三七年(昭和十二年)に東京大学法学部に入学したが、この浪人生活では、山鹿素行や吉田松陰、久坂玄瑞らが遺した文章を精読し、とりわけ吉田松陰の『(こう)(もう)(さつ)()』に心打たれたという。


 このような経緯で東大法学部に進学したわけだが、その際、次のような問題意識を抱いていた。

《二・二六事件が起きたのが昭和十一年二月、支那事変が勃発したのが昭和十二年七月である。その間の昭和十二年春が、私が東大に入学した時で、“軍部の政治への関与”が徐々に表面化しはじめた時期であった。もう少し詳しく言えば、陸軍の中にあった“皇道派”が二・二六事件で失脚する形となり、一方の派閥をなしていた“統制派”といわれる側が、軍部の中枢を占めはじめていく頃でもあった。二・二六事件の“皇道派”によって書かれた『粛軍の意見書』は、数年後になって精読する機会に恵まれたが、その内容には深く心を打たれるものが多々あって、惜しい人々が処刑された、との感を禁じ得なかったものである。


 こうした折に東大法学部に入学したのであるから、軍人と政治家の関係は? 学者と政治家の関係は? 学者と軍人の関係は? 等々について、本来あるべき関係は何か、を突きつめてみようとしたことは、決して行き過ぎたことではなかったと思う》(小田村寅二郎『昭和史に刻むわれらが道統』日本教文社、一九七八年)


 こうした問題意識を抱いていたがゆえに、小田村は、東大の教授陣の問題にすぐに気づくことになる。


 小田村が見た東大法学部はその期待とは裏腹に、「国の運命などとは無縁に近い学園」(同書)であり、だらけきった場所であった。


 そこで小田村は、東大法学部の講義内容がいかに問題があるのかということを、「東大法学部における講義と学生思想生活」という論文に書き、雑誌『いのち』に発表した。東大法学部二年生のとき、支那事変勃発の翌年、一九三八年(昭和十三年)夏のことである。


 その中で小田村は、教授たちがどれほど弛緩した言動をとろうとも、あるいはいかに不見識なことをいおうとも、学問の自由の名の下に学内でも何ら批判されることなく、無責任な態度に終始している実態を激しく批判した。


国際法学者・横田喜三郎の暴言と堕落


 小田村はその論文「東大法学部における講義と学生思想生活」で、教授たちの問題の実例として、横田喜三郎、宮澤俊義、河合栄次郎、矢部貞治、〓山政道の五人を挙げている。ここでは、その中から横田喜三郎と宮澤俊義の部分を紹介しよう。


 まず、横田については二つのエピソードを取り上げている。その一つ目はこうだ。

《国際法上位説論者横田喜三郎教授の事であるが、同教授は昨秋の国際法講義中に、

「世界の文明国といえば英米仏を挙げねばならぬ。日本精神の世界的優秀性をよく最近はいうけれども、日本やイタリーの文化などはブラジルの文化に比すべきものである」


 と、侮蔑的嘲笑を含めた口調で述べたのである。ブラジルとは文化階次の最も低級な植民地に過ぎぬではないか。かかる不用意の言動は、実に平常における祖国侮蔑の心情から生じたものに他ならぬのである》(小田村寅二郎『昭和史に刻むわれらが道統』)


 明治以降、二つの日本があったと書いた。日本の歴史と伝統を蔑視する「エリートの日本」と、日本のよき伝統を引き継いでいる「庶民の日本」だ。


 政府の中枢を支えるエリートを養成すべき東京大学は戦前から、「日本を小ばかにする」雰囲気が満ちていたのだ。戦前の日本は愛国的であったというのは「庶民の日本」であって、「エリートたちの日本」はまったく異なる精神世界であったのである。


 そしてもう一つのエピソードからは小田村が当時の東大の実態に、いかに衝撃を受けたかが伝わってくる(傍点は原文のまま)。

《この同じ拝外思想の横田教授の東大法学部における講義が、いかに現実の国民生活に対する厳粛性を欠いたものであるかの一実例としては、今春三月、国際法第一部の試験問題

「国家が古くなった条約の拘束を免れたいと思う時、そこに如何なる方法があるか。」(横田教授出題)


 に対する学生の答案内容において、これを見ることが出来るのである。


 横田教授は右問題に対する答案の講評を、四月新学期の初頭においてされたのであるが、それによると、「かかる場合には自国が当事国以外の第三国に併合せられればそれでよい。」という類の答案が、驚くなかれ、十以上あったというのである。しかも横田教授は、「いかに純粋法学といっても、これでは余りひどい」と、実に爆笑に近い笑声を以て語られたのである。その笑声に和して数百の学生が大講堂でどっと爆笑した響きは、生々しい印象を伴って私の頭の中に今でも残っている。一体これが笑って過ごせる問題であるか、一体これでも学問なのか、これが()()の帝大に於ける国際法の()()であり、その()()()()に対する()()なのか。外国のどこの大学をさがしたならば、こんな空虚な空想的な事実を見出し得るのであるか。現実的に我々の同胞が血を流しつつ祖国を守護しているのに、自国が他国に併合せられる事を以て国際法の問題の答案となす学生が十名以上もいたり、その答案を受け取って学者、教育者として責務を少しも痛感せず、一場のナンセンスかのごとくに笑って過ごしている教授がいるとは、これはもはや真剣な学問探求の学府の出来事ではなくて、空漠概念の追求遊戯場のトピックというよりほかはないではないかと、当時私は空虚な笑声の響く大講堂の中で、独り心中に悲痛の涙を搾ったのである》(同)


 たとえば日米のあいだで条約を結んでいたとして、それを破棄するためには、日本がドイツやロシアに占領されたらいい。こんなデタラメな答案と、それをただ笑っている教授の弛緩しきった空気。しかもこの前年、支那事変が勃発し、同世代の日本の若者たちに多くの犠牲が出ていたのにもかかわらず──。


 ここには、中国大陸で苦闘する同世代の若者を思う同胞意識も、学問の真剣さも存在していない。

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