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(2021/11/26 追記)

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中国人、会って話せばただの人 近くて遠い隣人との対話
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人文・科学
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まえがき

『中国人、会って話せばただの人 近くて遠い隣人との対話』
[著]田島英一 [発行]PHP研究所


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 まだ私が高校生であったころ、弟の通っていた小学校のPTA会議に出席していた父が、けげんそうな顔をして帰ってきた。

「トイレに入っていて、妙な話を聞いてしまった。昼の弁当がウナギだったんだが、地元の保護者が数人、『今日は生まれてはじめてウナギを食った』って、ひそひそ話していたんだ。なんでもあそこの集落では、ウナギを食わないというオキテがあるらしい」


 ここで父が「地元」といっていたのは、農民を中心とした「旧住民」地区を指している。私が、四歳から三十年近くを過ごした茨城県県南地方には、旧来の住民と、ベッドタウン化で新興住宅地に移転してきた「新住民」という、ある種エスニシティと階級をないまぜにしたような「自己/他者」意識が、あまねく存在していた。

 あえてエスニシティといったのは、「言語」の相違が、両者の識別に大きな役割を担っていたからである。もとより子供には、「旧住民」も「新住民」もない。しかし、ひとたび小学校に上がれば、普段いっしょに遊んでいる近所の子供たち以外にも、多くのクラスメートができる。そこには、母音が四つで高低アクセントが一本調子、「べ」「ぺ」で文末を結び、「でれすけ」「ごじゃっぺ」などといった罵詈雑言(ばりぞうごん)を駆使する茨城方言の話者もいれば、いわゆる「標準語」の話者もいた。どことなくぎこちない意思疎通。運動会における「集落対抗リレー」などといった種目の影響もあり、やがてそれぞれの児童に、「他者」意識が刷りこまれていった。

 大人たちは、この言語問題になおさら慎重であったようだ。茨城で商売を始めた父母は、「標準語を話すと地元の客から相手にされない」といって、日々「茨城弁」の実践に努めていた。PTAでは地元住民の保護者と協力し、商売でも「茨城弁」で地元顧客とやりあう。一見、地元に溶けこんでいるように見える父だが、まだ知らない「地元」があったということだ。小学生時代、私もある地元出身の教員から、「んだから、おめだぢみでな、○○団地のやづら、やなんだよぅ」(=だから、おまえたちのような、○○団地の連中は、嫌いなんだ――の意。「○○団地」とは、「新住民」が居住していた地区の名称)と、説教ついでに捨てぜりふを吐かれ、ショックを受けた記憶がある。

 あちらから見れば、我々はどこまでいっても京浜地区からの「流れ者」なのであり、集落の「オキテ」「いいつたえ」などといったものを、共有しうる立場にはないのだ。「共存」は公共空間という日常の表層においてのみ成り立ち、私的空間において我々は拒絶されている。つまり、「公民」としては隣人でも、「常民」としては他者だったのだ。あの事件以来、それまでおとぎ話のように思えた安部公房や大江健三郎の小説が、妙なリアリティーを持って迫ってくるようになった。

 大学時代には、こんな経験をしたこともある。柳田國男の『遠野物語』に魅了された私は、三田祭(=慶應義塾大学の大学祭)期間を利用して、岩手県遠野市を旅行した。自転車を借り、付近の集落をくまなくまわる。ある日、逗留していた民宿に戻ると、女将(おかみ)さんに声をかけられた。

「今日は、どこへ行ったんかい?」
「○○と、××をまわってきました」
「えっ? あんた、○○へ行ったの?」
「そうですが、何か?」
「あんた、あそこはね、隠れキリシタンの村だよ!」


 女将さんの話によると、彼らは決して集落外の者と交流しない。かつて村内で起きた殺人事件も、警察への情報提供を拒む村民によって、迷宮入りを余儀なくされたのだという。家には、他集落の民家同様、「おしらさま」の神棚がある。しかし、それを軽く押すと、忍者屋敷のように、裏から「デウスの神殿」が現れるのだそうだ。

 明治初期にキリスト教禁制が解かれたのであるから、もはや隠れる必要もない。それでも「隠れキリシタン」であるのは、数百年の「隠れ」によって、近隣の集落からもローマを頂点とするカトリックのヒエラルキーからも外れ、孤絶した集団、一種の閉じられたエスニシティになってしまったからであろう。
「他者」は、確かに存在する(それとて、対話不能な相手だとは思わないが)。だが、それは「○○人」などというわかりやすいレッテルを貼られた形で、立ち現れてくるのではない。むしろ、よく知っているはずの日常の片すみから、幽霊のようにぬっと顔を出すものである。なぜなら、日常の慣性が働かない世界では、ある意味すべてが「他者」なのであり、とりたてて「まれびと」扱いしなければならない相手など存在しないからだ。

 わざわざ外国まで旅をして「他者」を見つけたと感じるのは、占い好きの自己暗示にも似ている。母の叱責をも「女難」と感じ、こわれた水洗トイレさえ「水難」と見る。そういう手合いにとって、霊験なき占い師はいない。「他者」を期待して旅する者も、ささいな違和感をとりあげては、手当たり次第に「他者」の存在証明とするであろう。*  *  * だから私は、この本のなかで、「他者」としての「中国人」を問うつもりはない。

 世界が多様であるのは、疑いようもない。構造主義にせよポストモダンにせよ、二十世紀を彩った新思潮は、ある意味、十九世紀的な「普遍」「近代」へのアンチテーゼでもあった。十九世紀的な「普遍」「近代」には、西洋の「特殊」や歴史の慣性もまぎれこんでいたのであるから、それは一応理解できる。だが、そこには少なくともふたつの罠がひそむ。

 第一に、主権国家単位の文化的多様性(あるいは「儒教文化圏」などといった地域単位の文化的多様性)のみを有意義な差異と見なし、内に対しては同質化を求め、それをダブル・スタンダードだとも感じない態度。つまりは、域内「常民」の文化的多様性と人間存在の普遍性を周縁化してはばからないような、悪しき相対主義への誘惑だ。国家間で「人権」などという議題がテーブルにのぼると、えてしてこれが、みずからの不作為を糊塗(こと)する口実として登場する。それも、「文化的多様性の重視」というリベラルな仮面をつけて。第二は、対話努力の放棄である。「違う文化コードの持ち主とは、話が通じないから話すだけ無駄」といった類の、一見世知に富んだ「大人」のエクスキューズだ。

 悪しき相対主義は、「他者」を創出し、その属性を不変の本質と見る。残念ながら日中間でも、この手の言説は枚挙にいとまがない。たとえば、中国人が歴史問題を問えば、「いつまで昔の話をするのか」「未来志向こそ大切」といった反応が、日本人側から返ってくる。やがてそれは、「中国人はそもそも、相手が死んでも罪を赦さない、狭隘(きようあい)なメンタリティの持ち主」「過去は水に流す日本のみそぎ文化とは、異質な文化の担い手」といった、怪しげな文化論にまでいきつくのだ。

 しかし、考えてもみてほしい。一九八〇年代、山口県萩市は、福島県会津若松市との友好提携関係に向け努力していた。そして、その試みが失敗した原因は、会津若松側の市民感情にあった。ある調査によれば、市民の三割近くが、「山口県にはこだわりがある」と答えている。かつて、死んだ会津兵に埋葬を許さなかったのは「官軍」であり、それに百二十年こだわったのは、会津若松人だ。六十年前の悲劇を忘れず、死した戦犯を赦さない中国人が文化的「他者」なのだとしたら、この両者は「他者」であり、つまり「日本人」ではないことになる。安易な文化論がいかにばかげているかという証左だ。

 むしろ、ここで導かれるべき自然な結論とは、次のようなものではないだろうか。「中国人も会津若松人も同じ喜怒哀楽を持つ人間なのであり、被害者にとって記憶はぬぐいがたく、加害者はえてしてその傷に鈍感である」。これは、一定の普遍性を備えた、いたって単純な真理である。韓国のメロドラマに、韓国語を学んだこともない日本のご婦人が涙できるのも、製作者と視聴者がともに人間であるからに違いない。あえてその自然な結論を回避し、文化相対主義に逃げこむ人々にこそ、私はある種の作為を感じる。

 相対主義は、時に不公正を隠蔽(いんぺい)する。「文明の衝突」といい「現代の宗教戦争」といえば、話としては面白かろう。しかしたいていの場合、テロリズムの背後には、経済的不公正や抑圧が身をひそめている。そうした不公正は見逃しておいて、暴力的手段による異議申し立てを「○○教の伝統」といった類の文化的特性に帰する発想は、アンフェアであるうえに危険きわまりない。

 相対主義は、歴史にもしのびこむ。「歴史は科学ではない」という人々がいる。なるほど、E・H・カー(イギリスの歴史学者)もいうとおり、人間はみずからを縛るコンテクストの存在を、謙虚に認めるべきだ。私が自国の歴史について「認識する」ときも、あくまでもそれは、西暦二〇〇六年という時代、日本という地点から、主観的なパースペクティヴを得たにすぎない。しかしカーは、一方でこうも警告している。歴史を科学と呼ぶことをやめてしまえば、ふたつの文化の間にある溝を恒久化することになる、と。それは、対話の拒否という知的怠慢を、正当化することである。

 安易な「中国人論」は、こうした相対主義に口実を与えかねない。「中国人」「日本人」とは、各国国籍法の規定する法概念にすぎないという事実を、この際、本書の大前提としておことわりしておきたい。中国人であれ日本人であれ、その人に多少でもまともな知性があれば、「単一民族、単一言語、単一文化」などという言説には、おいそれと染まるまい。在日韓国朝鮮系の方々や、沖縄県民、アイヌ民族の話などはおくとしても、「大和系日本人」自体、かなりの程度、ハイブリッドな現実を無理やりローラーで伸ばして均質化して見せた、「想像の共同体」(B・アンダーソン)にすぎないのだから。*  *  * かつて竹内好も主張していたが、出発点は、「同じ人間である」という、普遍性の承認であるべきだ。無論私は、「同じ人間である以上、中国に暮らす人々との間でも、無条件にコミュニケーションが成り立つ」などと主張するつもりはない。相手の「特殊」に対する配慮は、当然必要になる。

 だが、その「特殊」が、「中国文化」「中国事情」に由来するとは限らない。広くユーラシア大陸に共有される「特殊」なのかもしれないし、逆に○○省の某地方にだけいえることなのかもしれない。「特殊」に配慮する場合、その「特殊」がどの層に宿るかまで考えておく必要がある。なんでもかんでも「中国」で片付けるのは、ナンセンスだ。そして、それがどの層の「特殊」であるかを知ろうとすれば、一度相手の「常民」の世界にまで下りてみるしかない。要するに、フィールドワークが必要になる。

 フィールドワークから相手の「特殊」を見極めつつも、「普遍」という出発点に絶えず立ち戻って考える。このやっかいな作業をくりかえすことでしか、異郷に暮らす人々との対話は成り立たない。私がしつこく中国へ足を運ぶのも、ひとつには対話と理解への渇望からだ。そして最後はいつも、「畢竟(ひつきよう)、この人たちも人間なのだな」という、みもふたもない事実へと落ち着いてゆく。

 本書には、私が「中国」の足もとに飛びこみ、歩きながら考えたこの十数年の、ほんの一部が記録されている。理論的枠組みを提示した研究書ではないし、かといって単純な旅行記でもない。随筆としても中途半端の感は否めないが、このいろいろな意味で難しい隣人との対話について読者諸氏とともに考えてみたいとの思いから著した。ご一読のうえ、ご批判、ご叱正を賜れば、幸いである。

 紙面の関係から、訪れた場所のすべてを紹介することは、省単位で考えても到底できない。そこで、第一章では東部(広東省)を、第二章では中部(広西チョワン族自治区、湖南省、湖北省、河南省)を、第三章では西部(雲南省、チベット自治区)を紹介し、筆者にとって最も「土地勘」がある上海を含め、その他の省は割愛した。上海を中心とした華東地区については、拙著『上海』(PHP研究所)において詳述するところがあったので、そちらをご参照いただきたい。
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