読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

犬耳書店はRenta!へ統合いたします

(2021/11/26 追記)

犬耳書店の作品をRenta!に順次移行します。
詳しくはこちらでご確認いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

0
200
kiji
0
0
1199246
0
中国人、会って話せばただの人 近くて遠い隣人との対話
2
0
0
0
0
0
0
人文・科学
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第一章 海辺の「中国人」たち 二〇〇四年三月・広東省

『中国人、会って話せばただの人 近くて遠い隣人との対話』
[著]田島英一 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間7分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ




 このとりとめのない話を、どこから始めようかと、随分迷った。いろいろ考えたすえ、結局、孫文(スンウエン)にした。

 近代以前の世界は、さして悪意のない自己中心性で満ちている。ローマにせよ長安、洛陽にせよ、みずからを唯一無二の「文明」の体現者と見なし、「中心」をもって自認する。「文明」の度合いは、「周辺」へ向かうにしたがって低下する。やがて異質な文明世界(=非「文明」世界)につきあたったところが、つまりは世界の果てなのだが、これも決して固定的な国境ではない。そこから先に住んでいるのは、ある意味人間ですらない。というより、「人間」という一種普遍的概念が、文明を超えて共有されていたかどうか、それすら定かではない。このような「世界」のあり方を、B・アンダーソンは「宗教共同体」と呼んだ。ここで「文明」とは「聖なる教え」であり、その聖典は「聖なる文字」によって綴られる。アンダーソン同様、ナショナリズム研究者として知られるE・ゲルナーは、この「聖なる教え」を「高文化」と呼んだ。人口の大半を占める食糧生産者は、小さな地域ごとに切り裂かれたフォークロアの世界、ないし「低文化」内で生活している。文官、聖職者、貴族といった特殊な階層だけが、「高文化」にアクセスできる。
「中国」の文脈でいうと、「四書五経」などを聖典とした礼教秩序が「聖なる教え」であり、そうした「高文化」の享受者とは、士大夫階層であったということになる。ただし「中国」では、比較的身分の固定されていた中世欧州とは異なり、食糧生産者から士大夫階層への道が、「科挙」という形で、一応開かれていた。近代初期になっても福澤諭吉が「門閥制度は親の仇」といった日本より、ある意味で進歩的ではある。後天的教育を重く見る、儒家の伝統も手伝ってのことであろう。

 アンダーソンによれば、欧州人が「人間存在の手の施しようのない多元性」に衝撃を受け、「宗教共同体」から目覚めたのは、大航海時代であったという。なるほど、近代の幕開けを告げるルネッサンスは、「東方」との交易で栄えるイタリア諸都市で起こった。だとすれば、中国においてその契機に恵まれていたのは、疑いなく広東(コワントン)福建(フーチエン)であろう。中国東南部沿岸に位置するこの両地は、密航、域外就労、密輸、海賊といった形で、明清の海禁政策に風穴をあけ続け、域外諸民族や華僑社会との連絡をも保った。まさに、「天高皇帝遠(テイエンカオホワンテイーユアン)」(=遠隔の地には中央の統治もおよばない)というやつだ。

 アヘン戦争以降は、英仏の貿易基地ともなっている。変法運動の旗手であった康有為(カンヨウエイ)梁啓超(リヤンチーチヤオ)や、洪秀全(ホンシユチユアン)、孫文といった種族主義的反清運動家の多くが広東籍であったことは、おそらく偶然ではあるまい。天地会(テイエンホワンカイ)哥老会(コーラオホエイ)といった反清結社の多くも、この(=福建)・粤(=広東)の両地で勢力をのばしている。

 そんなことを考えているうちに、彼らが生まれ育った土地を、改めて訪れたくなった。

自由市場の喧騒

 広東に来るのは、何度目だろう。過去に、広州(コワンチヨウ)(シンセン)珠海(チユーハイ)汕頭(スワトウ)東莞(トンクワン)江門(チアンメン)仏山(フオーシヤン)中山(チヨンシヤン)などを旅した。いずれも、大した目的はない。ただ外資の工場が集中する地区を見てみたいとか、経済特区をのぞいてみたいとかいった理由で、ぶらりとまわるのが通例であった。

 私は、なんとはなし香港という街になじめない。ソフト面は好きだ。文化的多様性と、高い市民意識。大陸諸都市や日本よりも、よほどあかぬけている。問題はハード面。林立する摩天楼の間を徘徊していると、毛髪にひそむシラミになったような、そんな息苦しさを覚える。それでたいていは、広州から広東入りする。

 広州は、「羊城(ヤンチヨン)」「(フエイ)」などとも称される。古代、穂をくわえた五頭の羊にまたがって仙人が降り立った、吉祥の地であるという伝説によるものだ。現在、越秀公園(ユエシウコンユアン)内に、広州の象徴たる五羊像が建っている。はじめてこの街を訪れたのは、一九八九年の暮れのことだ。実は、留学先の上海から、はじめて訪れた外地でもあった。まずは、そのときの話から始めよう。

 私の第一回中国留学は、一九八九年九月から一九九〇年八月にかけてのことであった。場所は、上海・復旦大学。留学生活が四カ月目に入り、そろそろ旅行でもと考えていた私を、当時早稲田大学から留学に来ていた友人が、引っぱり出してくれた。彼は広州からそのまま香港経由で台湾に向かい、私はひとり汕頭を経由して、厦門(アモイ)まで足をのばした。はじめての一人旅が、まさに・粤周遊となったのだ。
「引っぱり出してくれた」というのは、これがきっかけで、それまで出不精だった私に旅行熱の火がついたからだ。おかげで指導教授とお会いする機会もめっきり減ってしまったのであるから、ぐうたら学生の出発点にもなっている。しかし、北京(ペキン)、上海を見て「中国」を理解した気になることの愚かさは、肌身で実感できた。あのとき、彼が広東料理で私を釣っていなければ、私は今ほど「中国」に魅せられてはいなかったかもしれない。

 今でも忘れないのは、広州白雲(パイユアン)空港に降り立ち、リムジン・バスで市街へ向かったおりのこと。車内には、ラジオのクイズ番組が流されていた。幸い、白話(=広東語)ではなく普通話(=共通漢語)であったので、意味がとれた。「広東料理には百数十種類の蛇が使われていますが、『○○湯』というスープに用いられる蛇は、次のどれでしょうか?」。なんともはや、広東らしい「出迎え」に、苦笑がもれたものだ。

 バスは広州駅前に到着、そのまま駅にほど近い華僑酒店(ホアチヤオチウテイエン)に宿泊した。友人が香港行きの切符を買うのに便利であったという理由と、そこの早茶(ツアオチヤー)(=朝の飲茶(ヤムチヤ))がうまいという、彼の進言に基づく選択であった。中国のホテル料金は部屋単位で表示されるのが普通で、ふたりでツインに泊まれば、料金は折半となる。彼が私を誘った理由も、ひとつはそこにあった。当時三つ星であった華僑酒店のツインは、一泊一二〇元(=当時のレートで五〇〇〇円)ほどであったように記憶している。

 彼は忙しい。この旅も、いくつか重要な目的をかかえていた。今でこそ、SARSの流行する街でも平気で歩けるような無神経男に堕しているが、当時の私はといえば、まずは小心な中国旅行ヴァージンであった。今思うと、彼もそれを承知で、私を突き放してくれていたのかもしれない。若干の不安を覚えつつも、ひとり広州の街をぶらついてみることにした。

 広州の街は、私の好奇心を十分に刺激した。まずは、当時は上下九街(シヤンシアチウチエ)(広州屈指の商業区)近くにあった、自由市場を散策した。いるいる。売り手が叫び、動物が鳴く。下手な動物園より、よほどにぎやかだ。籠に入った無数のヘビ、アルマジロ、ミミズク、ハクビシン……。ネコはなぜか、ほとんど子猫であった。食卓にのぼる運命を知ってか知らずか、道行く人々に愛らしい声で鳴いてみせる。軒先にぶら下がるアヒルの丸焼きは、横浜中華街でもよく見るが、ここではイヌの丸焼きが下がっていた(写真1)。

 冷凍保存した刺身が一味落ちることは、たいていの日本人が知っている。本当の鮮魚を知る漁師は、スーパーの切り身が食べられない。多くの中国人には、肉についても似たようなこだわりがあって、できるだけ「おろしたて」の肉を食べようとする。だから、動物の多くは、生きたまま屋台に並べられているのだ。買い物の仕方が面白い。まずウサギの屋台に行き、ウサギを一匹「おろす」よう店主に命じる。その足で魚や野菜を買いに行き、戻ってくるころには、哀れウサギは肉塊と化しているのである。若い女性が、怖じ気もせずにそれを受け取る。今夜のスープは、ウサギ汁らしい。

 広東人の食卓に、スープは欠かせない。やかんを細長くしたような独特の陶器で、時間をかけて肉、野菜を薬草とともに煮こむ。具はダシと割り切り、主にスープを飲むのである。同じ広東省の料理でも、広州料理(=粤菜(ユイエツアイ))は潮州(チヤオチヨウ)料理に比べて油がきつい。たとえば、潮州料理の前菜が、塩茹でにしてそこそこ脂の抜けたガチョウ、豆腐などであるのに対して、広州では「化皮乳猪(ホアピールーチユー)」(=甘い味付けで丸焼きにした子豚の皮付き肉)などが用いられる。炒め物に使う油は、多くが花生油(ホワシヨンヨウ)(=落花生油)だ。しかも漢方によれば、広州は水が悪いという。スープには、水や油の負担から体を守る、漢方薬としての役割も期待されているのだ。食後は、さらに涼茶(リヤンチヤー)を飲む。これも茶とは名ばかりで、一種の漢方薬だと考えてよい。

 その後この自由市場は、欧米諸国の動物愛護団体等の抗議を受け、郊外へと引っ越すことになる。国際都市をめざす広州としても、体裁が悪いと判断したのであろう。郊外へと移った市場が、二〇〇三年のSARS騒ぎで、ウイルスの攪拌器として再び「脚光」を浴びたのは、周知のとおりである。

広州のオールド・タウン

 引き続き沙面(シヤーミエン)に足をのばすと、一台のトラックが、荷台に二〇〜三〇人ほどの若い女性を載せて現れた。皆、首からプラカードのようなものを提げている。同乗している女性警官の様子から、噂に聞く「さらし者」だとわかった。プラカードは、罪状を記すためのものだ。多くは、春をひさぐ女性である。「殺鶏給猴看(シヤーチーケイホウカン)」(=ニワトリを殺してサルに見せる、つまり見せしめにする)とはいうが、これもまた一種の教育なのだ。広東語なのでよくわからないが、おおかた、群がってきた野次馬に向かって、売春の非合法性、反道徳性を訴えているのであろう。(1)

 当時上海で、こうした女性を見かけることは少なかった。それが広州についたとたん、ホテルの電話が鳴る。彼女たちからの、誘いの電話だ。

「サービスはいかが?」
「誰だ、君は?」
服務員(フーウーユアン)
「ロビーのフロントにいる服務員? それともこの階の服務員?」
「私は外の服務員なの」


 万事がこんな調子であった。私の印象では、中国でこの手の現象が一番はなはだしいのが海南省、それに次ぐのが広東省と雲南(ユインナン)省だ。四川(スーチヨワン)省、湖南(フーチン)省といった内陸諸省から供給される「民工」(=主に農村出身の出稼ぎ労働者)で、労働集約型企業(多くは外資か香港・台湾資本)を成り立たせている広東。雇用形態は住み込みのパートに近く、民工の地位は不安定だ。職を失った少女が身持ちを崩し、搾取に疲れた少年が犯罪者集団を形成するのは、いわば一種の構造的な問題でもある。

 上海では夜間もショー・ウインドーに商品を並べたままだが、広州では必ずシャッターを閉める。一般家庭にまで核シェルターまがいの盗難防止用扉が装着され、街角では棍棒を持ったガードマンがひったくりに備える。麻薬、AIDS、ペテン、誘拐……悪と悲劇のるつぼと化した広州駅前には、治安維持のため湖南省の武装警察(=軍隊に準ずる装備を持つ治安部隊)が呼ばれたほどだ。広州市民に、そろそろ防犯疲れが見えはじめている。しかしこれは、民工を悪者にすれば済む問題ではない。

 二〇〇三年に起こった珠海日本人集団買春事件は、記憶に新しい。関西の某企業が社員慰安のため企画したマカオ旅行が、集団買春という形で脱線してしまった。たまたま一九三一年の「満州事変」における国辱日(=九月十八日)に近かったこともあり、これがインターネット世論を刺激した。日本人を罵倒する書きこみが殺到し、やがて中国外交部までが事件をとりあげざるをえなくなる。中国政府はとうとう、ICPOを通じての「主謀者」国際指名手配にまで踏み切った(二〇〇五年末に発覚した上海領事館の日本人職員の自殺事件は、記憶に新しい。最近の日中両国間では、事務レベルで手打ちにした案件が表面化し、世論の圧力で政治が動かざるをえなくなるというパターンが、くりかえされている)。
この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:28252文字/本文:33290文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次