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イチローの哲学 一流選手は何を考え、何をしてきたのか
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プロローグ 二〇一〇年八月、イチローとの久々の再会

『イチローの哲学 一流選手は何を考え、何をしてきたのか』
[著]奥村幸治 [発行]PHP研究所


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〓メジャーのグラウンドで、イチローと再会できる!



 二〇一〇年の夏は私にとって、忘れられない夏になりました。


 毎年八月、アメリカ・メリーランド州のアバディーンという小さな町で、カル・リプケン十二歳以下世界少年野球大会が開かれています。名前の通り、メジャーリーグを代表する名選手だったカル・リプケン氏が、野球に打ち込む少年たちを応援するために主催している大会です。


 その大会に私は、監督として日本代表チームを率いて出場しました。実は私はその前年の大会から監督を務めさせてもらっていたのですが、一年目の結果は決勝戦でメキシコに一対〇で(やぶ)れて準優勝。それだけに代表チーム監督二年目となったその年は、絶対に優勝するんだという強い気持ちで(のぞ)んでいました。


 ただその年の渡米では、大会とは別に楽しみにしていたことがもう一つありました。


 それは八月十七日、ボルチモアで行なわれるオリオールズ対マリナーズの試合を観戦することが、日程に組み込まれていたことです。アバディーンで予選リーグのドミニカ戦を終えた後に、約六〇キロ離れたボルチモアに移動し、試合を観ることになっていたのです。


 しかも観戦だけではなく、試合前には代表チームの選手たちと一緒にグラウンドに入ることも特別に許可されていました。


 オリオールズと対戦するマリナーズには、いうまでもなく、あのイチローがいます。イチローは二〇一二年シーズン途中にヤンキースに移籍しましたが、当時はまだマリナーズでプレーをしていました。きっとグラウンドに入れば、試合に備えて練習をしているイチローに会えるはずです。

「イチローとの久々の再会を、メジャーのグラウンドで果たせるなんて!」


 そう考えると、私は胸の高鳴りを抑えることができませんでした。


〓「イチローの恋人」と呼ばれていたころ



 一九九三年と九四年の二年間、私はオリックス・ブルーウェーブ(現オリックス・バファローズ)でバッティングピッチャー(打撃投手)を務めていました。


 九三年といえば、イチローは高卒でオリックスに入団して二年目。高い打率をマークしていたものの、首脳陣に認められずに二軍暮らしが続いていたころです。


 そして九四年のシーズンは、(おお)()(あきら)さんが監督に就任して、イチローを一軍のレギュラーに(ばつ)(てき)。イチローは一気にブレイクして、シーズン二一〇本という当時の日本最多安打記録を達成しました。


 ちょうどそんな時期に、私はイチローと同じチームにいたわけです。


 私とイチローは一歳違いです。出会ったのは、私が二十歳でイチローが十九歳のときでした。お互いに独身寮暮らしで、部屋も隣同士。すぐに公私ともに親しくなりました。またイチローが一軍に定着してからは、試合前の打撃練習で常に私がバッティングピッチャーを務めていました。


 イチローが二〇〇本安打を達成した日、私は彼にケーキをプレゼントしたのですが、イチローは新聞記者に向けて「ロッカーで奥村さんからもらったケーキが一番うれしかった」というコメントをしてくれました。そんなこともあり、当時私はマスコミから、「イチローの恋人」と呼ばれたのです。


 イチローと一緒にいるときに話すことといえば、当然、野球の話が中心でした。そのころからイチローは、はっきりとメジャーへの(あこが)れを口にしていました。くわしくはまた後で述べますが、当時からイチローは「これが本当に同世代の若者の考えることなのか!?」とこちらが驚いてしまうぐらい高い目的意識を持って、日々、野球に取り組んでいました。


 イチローと過ごした二年間はとても濃密で、学ぶことが多い二年間でした。



 その後のイチローの歩みについては、細かい説明をする必要はないでしょう。


 日本のプロ野球で前人未踏の七年連続首位打者を達成した後、二〇〇一年にメジャーリーグのシアトル・マリナーズに入団。いきなりMVPと新人王、首位打者と盗塁王を獲得します。二〇〇四年にはメジャーのシーズン最多安打記録を八十四年ぶりに更新する二六二安打を記録。さらに二〇〇九年にはメジャー史上初となる九年連続二〇〇本安打を記録し、二〇一〇年には、その記録を十年連続に延ばしました。二〇一二年にヤンキースに移籍してからは、レギュラーが確約されない状態が続いていますが、誰もが認めるトップクラスのメジャーリーガーであることに変わりありません。


 一方私は、一九九四年にオリックスを退団しました。実は私には「バッティングピッチャーではなく、プロのピッチャーとして試合でマウンドに立ちたい」という夢があり、他球団のテストを受けるために退団したのです。


 しかしバッティングピッチャーとして腕を酷使していたこともあり、入団テストのときには私の(ひじ)は限界に達していました。結果は不合格。私はプロ野球選手になる夢をあきらめざるを得ませんでした。


 その後、私は阪神タイガースと西武ライオンズでバッティングピッチャーを務め、九六年にユニフォームを脱ぎました。


 そしてスポーツトレーナーの仕事を始める一方で、九九年に宝塚ボーイズという中学硬式野球チームを設立。おかげさまでチームは常に全国大会出場を狙える強豪チームになっています。三期生には、二〇一三年に二四勝〇敗という驚異的な成績で東北楽天ゴールデンイーグルスを日本一に導き、現在はヤンキースで活躍している田中(まさ)(ひろ)もいました。


 私が世界少年野球大会の日本代表チームの監督を務めることになったのも、そんなふうに少年野球の世界に携わってきた縁からです。


〓少年野球の日本代表監督として



 話を八月十七日に戻します。オリオールズ対マリナーズ戦の試合前には、オリオールズに在籍している上原(こう)()選手が、グラウンドで子どもたちのためにボールにサインをしてくれたり、一緒に写真を撮ってくれることになっていました。


 そこで子どもたちと一緒にグラウンドに入ったのですが、絶妙のタイミングというべきか、何とちょうどイチローがバッティング練習中だったのです。上原選手には大変申し訳ないのですが、子どもたちの視線はすっかりイチローに釘付けです。


 上原選手からサインをいただき、イチローのバッティング練習が一段落ついたとき、日本代表チームに同行している星野(せん)(いち)さんが、イチローのほうに歩み寄っていきました(星野さんは、当時はまだ東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任する前でした)。ちなみに星野さんは、遠征費を含めたさまざまな面で日本代表チームをサポートしてくださっており、星野さんがいるからこそチームも大会に出場できています。


 星野さんの姿にイチローもすぐに気づき、手袋を脱いで握手をします。そこで簡単な(あい)(さつ)を交わした後、星野さんが「イチロー、後ろを見てみろ。奥村君がいるんだぞ」といったようなことを話してくださいました。


 振り向いたイチローは私の顔を確認すると、「あーっ!」と言ったまま私のほうを指差して驚いた表情をしています。


 実は今回、私が日本代表チームの監督としてアメリカに来ることは、イチローには内緒にしていました。「奥村さん、何でここにいるんですか!?」「いや、実はいま日本代表チームの監督をやっているんだ」「ええ~っ! そうなんですか」といったサプライズを仕掛けたかったからです。


 こちらの思惑通り、イチローは突然の私との再会に驚いていました。そして「奥村さん、何でここにいるんですか!?」と声をかけてきました。

「サプライズ、大成功!」です。


 イチローと顔を合わせて話をするのは、二年振りぐらいでした。試合前のわずかな時間ですから、それほど深い話ができたわけではありません。


 イチローは私と久し振りに会ったときには、必ずといっていいほどふざけて「奥村さんって、相変わらず小さいですねぇ、真っ黒ですねぇ」と話しかけてきます。「きっと今日も同じことを言うんだろうな」と思っていたら、予想通り「奥村さんって、相変わらず小さいですねぇ、真っ黒ですねぇ」と言ってきたので苦笑してしまいました。


 私のほうは試しにイチローに冗談交じりで「いらないバットがあったらプレゼントしてよ」と頼んでみたのですが、「いらないバットなんか、あるわけないじゃないですか」と切り返されました。予想はしていましたが、やっぱりダメでした。


 誰よりも道具を大切にするイチローは、よほどのことがない限り自分のバットを人にプレゼントするようなことはしないからです。



 そんなたわいもない会話でしたが、それだけでも私にとっては充分でした。


 私とイチローとの関係を知る人からは、「シーズンオフにはイチロー選手と会って、食事をすることなんかもあるんでしょう?」と聞かれることがよくあります。けれども、普段私はイチローに、こちらから連絡をとるようなことはまずありません。


 あれだけのスター選手になると、オフにはいろいろな方から声をかけられると思います。だからこそ私は、できるだけプライベートは静かに過ごさせてあげたいという気持ちが強く、自分が連絡することでイチローに変な()(づか)いをさせたくないのです。


 ですからその前に最後に会ったときも、お互いに連絡を取り合ったわけではありません。


 私がオリックスの球団代表の方に会う用事があって神戸のスカイマークスタジアム(現ほっともっとフィールド神戸)を訪ねたときに、たまたまイチローもシーズンに備えてスカイマークスタジアムで練習をしていて、偶然再会したのです。そのときもイチローの近況を中心に十分ばかり言葉を交わしただけで、すぐに別れました。


 イチローは、過去を振り返らない選手です。彼の思考はいつも前しか向いていません。何しろイチロー自身、「現役のうちは、過去を懐かしんではいけません」と発言しているほどです。古い仲間と会って、自分が若手選手だったころの昔話に花を咲かせることになんて、彼はあまり興味がないはずです。

「あのとき何を考えた?」といった(たぐい)の過去の話を、ご飯でも食べながらイチローからじっくり聞き出すのは、彼が引退してからにしたいと私も思っています。


 だからこそ今回のような形で再会できることは、私にとっては願ってもないことでした。かつて仲の良かった昔の友人としてではなく、お互いにいま違う道で頑張っている、現役のメジャーリーガーと日本代表チームの監督という関係として会えたわけですから。


〓イチローはさらに器が大きくなっていた



 久し振りに会ったイチローは、「人としての(うつわ)がさらに大きくなっているな」と感じました。若いころからイチローはファンを大切にしていました。外野を守っているとき、捕球したボールを試合を観に来ているファンのためにスタンドに投げるサービスをしていたのは、野手の中でもイチローぐらいでした。


 それでもどこか超然としているというか、人を寄せつけない雰囲気があったのも事実です。()のイチローは結構お茶目なのですが、人前に出るとポーカーフェースになるのです。


 けれどもこの日、子どもたちを前にしたイチローはすごく気さくでした。満面の笑みで「よし、一緒に撮ろう!」と言って、写真に収まってくれました。


 何よりこの日、印象深かったのは、イチローが子どもたちのためにホームランを打とうとしてくれていたことです。


 二打席目、イチローは明らかにホームラン狙いのスイングをしていました。長打を求められていない場面でホームランを狙うということは、「この試合を観てくれている日本の子どもたちのため」という以外に理由は考えられません。結果は右中間を深々と抜けそうな当たりだったのですが、惜しくも野手に好捕をされ、センターフライに終わりました。


 けれどもその後の打席は、きっちりとフォームを修正して二安打。シーズン三〇盗塁となる二盗も決めてくれました。


 私と一緒に野球をしていたころのイチローは、周囲の人たちに気配りをすることよりも、自分の能力を高めていくことのほうを優先していました。それはプロとしては当然のことです。


 もちろんいまでもその姿勢は基本的には変わっていないのでしょうが、「若い選手や子どもたちが、自分の一挙手一投足に注目している」という意識は、以前よりも高まっているのではないかと思います。

「将来プロ野球選手になることを目指している子どもたちが、日本代表チームのメンバーに選ばれてアメリカに来ている。そして自分の試合を観戦している。努力を惜しまなければ、日本人だってここまで世界で通用する選手になれるんだということを、身をもって子どもたちに示したい」


 イチローはあの日、そんな思いを抱きながらプレーをしていたのではないかと、私は勝手に想像しています。それがあのホームラン狙いのスイングではなかったかと思うのです。



 話はやや脱線しますが、二〇〇九年のシーズンオフに北海道日本ハムファイターズの稲葉(あつ)(のり)選手と会ったときに、「実はね、WBCのときのイチローってすごかったんだよ」という話をしてくれたことがありました。ちなみに私と稲葉選手は同じ昭和四十七年生まれ。「プロ野球47年会」のメンバーということもあって、仲がいいんです。


 稲葉選手は、その年の春に行なわれた第二回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に出場し、イチローとはチームメイトとして一緒に戦っています。


 あの大会でイチローは、一時は打率が二割を切るという絶不調に陥り、マスコミからもバッシングを受けていました。期待に応える働きができない自分に苦しみ、相当なプレッシャーの中でプレーしていたはずです。


 しかし、稲葉選手によれば、イチローはそんなときでも毎日のように若手選手を食事に誘っていたそうです。若手のメンタル面のケアに心を砕くとともに、野球界の先輩である自分が後輩の彼らに「伝えられることをできる限り伝えよう」としていたというのです。

「あの重圧の中でプレーするのは、本当に苦しいんだぞ。イチローだって絶対に苦しかったはずなのに、チームリーダーとして若い選手を引っ張っていこうとしてくれた。若手を育てようとしてくれた。あれは僕には真似できない。だから決勝戦のあの打席は、みんなで祈るような気持ちで見ていたんだ」


 と、稲葉選手は語ってくれました。韓国との決勝戦。一〇回表、三対三の同点で迎えた打席で、イチローは決勝打となる二点タイムリーヒットを放ちます。あれはみんなの祈りが通じ、みんなが打たせたヒットなのかもしれません。


〓イチローが歩む道、自分が目指す道



 真夏のボルチモアの球場でオリオールズ対マリナーズの試合を観戦しながら、私は「イチローには負けられないぞ」という気持ちになっていました。


 イチローは、自分のプレーを見てもらうことで、若い野球選手や将来プロ野球選手になることを夢見ている子どもたち、そして野球ファンに勇気を与えられる数少ない人物です。イチロー自身、それを意識しながらプレーしていると思います。


 私は現役選手ではありませんから、イチローとは違って、プレーを通じて人に何かを伝えることはできません。しかしだからといって、イチローに負けているわけにはいきません。私には私の役割があるはずです。


 私の身長は一六八センチで、野球選手としてはかなり小柄でした。「素質だけでは勝負できない」と思った私は、中高生のころからフルに頭を使って野球に取り組んできました。

「体格を武器に剛速球を投げることができないのなら、球のキレやコントロールを磨いたり、駆け引きで勝負できるピッチャーになろう。ではそのためにはどんな努力や工夫をすればいいのだろうか」


 といったことをいつも考えながら、練習や試合に臨んでいたのです。


 私の高校時代の知人は当時、「奥村は、もしかしたらプロに行けるかもしれない」なんて、誰も想像していなかったと思います。そんな私が、あと少しでプロ野球選手に手が届きそうなところまで来られたのは、常に高い目的意識を持ちながら野球に取り組んでいたからだと思います。


 しかし私以上に「高い目的意識を持つこと」を徹底的に実践していたのがイチローでした。


 イチローはよく「天才」と呼ばれますが、天性の才能だけでここまで上り詰めたわけではありません。イチローもまたメジャーの中では、決して体格には恵まれていません。高い目的意識を持ち続けて野球に取り組んできた結果、彼はメジャー屈指の名選手になっていったのです。


 若いころからイチローは、自分の考えや行動を言葉にして表現する力を持っていました。私はオリックスの独身寮の部屋の中や、試合後に一緒に食事に行ったレストランなどで、彼が考えていることや感じていることについて、よく話を聞いたものです。


 そのほとんどは理に(かな)うことばかりで、私はイチローから本当にたくさんのことを吸収しました。



 いま、私は指導者という立場にいますが、私の指導方針や指導理論の中にはイチローから学んだことが詰まっています。もちろんイチローだけではなくて、ほかの選手や監督から学んだことも指導に活かしています。


 私の役割は、イチローを始めとしたさまざまな選手の優れた考え方や実践法を、下の世代に伝えていくことにあると思っています。そうした中から田中将大のようなプロ野球選手やメジャーリーガーが育ってくれればうれしい限りですが、「プロで活躍する選手を輩出する」ことが私の最大の目標ではありません。


 私の一番の目標は、イチローのように自分の頭で考えることができ、高い目的意識を持って、物事をやり抜く力を備えた選手を育てることにあります。またそういう選手が育つチームを作ることが私の目標です。


 いま野球に打ち込んでいる中学生のほとんどは、将来プロ野球選手にはなれません。けれども野球を通じて(つちか)った「目的意識を持って取り組む姿勢」「自分の頭で考える力」「困難にめげずにやり抜く力」は、社会のどんな場面においても役立つはずです。


 私は子どもたちが将来社会に出たときに、自分で道を切り開き生きていくことができる力を(はぐく)んでいきたいと考えているのです。



 さて本書では、まず1章で、私とイチローとの出会いや、若きイチローがどのような意識で野球に取り組んでいたかを述べています。イチローの意識や姿勢は、野球以外の世界で物事を極めていきたいと頑張っている方にも参考になる部分が多いと思います。


 2章では、プロ野球の選手になることを目標としていた私が、中学硬式野球の指導者になった経緯について語っています。イチローだけではなく、人生の大切な場面でのさまざまな方との出会いが、いまの私の財産になっています。


 3章では、イチローのように高い目的意識を持って物事をやり遂げる力を持った「強い個人」の育て方、そして強い個人を育てることができる「強い組織」の作り方について述べています。私は中学硬式野球の指導者ですから、中学生の話が中心になりますが、企業で部下育成やチーム作りに苦労されている方にも、きっと参考にしていただける部分があるのではないかと思っています。


 そして4章では、「強い個人」を育て、「強いチーム」を作ることができる指導者の条件について述べています。



 実は最近、私は講演をさせていただく機会が多いのですが、野球関係者や教育・子育てに携わっている方だけではなく、企業で活躍されている方も、私の話に興味深く耳を傾けてくださることが増えました。


 ありがたいことに、「イチロー選手のセルフマネジメント術や選手指導についての奥村さんの話は、会社で人材育成や部下指導に取り組むうえでも参考になることが多い」とおっしゃってくださいます。


 野球やスポーツの世界で指導者として活動されている方はもちろんのこと、教育や子育てに携わっている方や、企業で部下育成や組織作りに取り組んでいる方にも、ぜひ本書を手に取り読んでいただければと思っています。

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