『[平井信義子育て教室] 「きいてほしいの」おかあさん わが子の“くちごたえ”を叱っていませんか』
[著]平井信義
[発行]PHP研究所
子どもの「よさ」を見ようとする親の姿勢 1
子どものことを言う前に、自分はどんな親であるかについて考えたことがありますか。まず、子どもは親の言うことをなんでもきくべきだと思っている親が多いのではないでしょうか。
私はつねづねそういう考えは間違っていると主張してきました。子どもは生まれたときはもっとも純粋です。その純粋さを親や社会が成長とともに不純にしているのです。世の中とはそういうものだ、とか、幸福になるとは親の言うことをよくきくことだ、といった間違った考えで「しつけ」をしているのが現実ではないでしょうか。
おかあさんやおとうさんは、子どもの「よさ」についてどのくらい知っていますか。紙に書き出してみてください。いくつ書けたでしょうか。欠点はいくつでも書けるけれどもよさとなるとなかなか出てこないのではないでしょうか。
親なのになぜ、自分の子どものよさが見えないのでしょう。よさがわからないでただ世の中の常識に従ってしつけをしたり怒ったりするのは、子どもの側に親が立っていないということです。
まず、親が反省して子どもの「よさ」を見ようと努力を始めることが、親であることの基本だと思うのです。このような姿勢を持つおかあさん、おとうさんなら中間反抗期の子どもの心をしっかりと受け止めてあげることができるのです。
子どもは無限の可能性を秘めた存在である──私はこの言葉が好きです。この無限の可能性とは何を意味するのでしょう。私は文明の進歩と、豊かな文化と、深い思想の三つを考えています。
新しい発想のできる子ども
現在の機械文明の進歩には目ざましいものがあり、半導体は私たちの生活を一変させるだけの機能を発揮しました。これからは超半導体とかその他の開発による飛躍的な文明の進歩が期待されています。これも、若い研究者の発明によるところが大きいのです。私のような老人は、新しい機械類についていけず、若い者にどちらかといえばまかせっ放しです。以前、家庭用のコピー機を買いましたが、当時小学生だった孫たちは少しももたつかずにさかんに使っていました。このような姿を見ていると、文明の進歩はこのような機械になじんだ若者によって受け継がれていくのだと思わずにはいられません。
ここで、考えてみてください。進歩というものには、創造性が必要です。創造性とは、今までになかったような新しいものを産み出す力であり、この創造性の発達にはどうしても自発性が必要なのです。
しかも、自発性の発達にとっては「いたずら」「反抗」「おどけ・ふざけ」などの経験が必要であることは、私がつねに言っていることです。つまり、現在の状態にあきたらず、発想を新しく展開する力は、いたずらや反抗のなかに秘められているのです。
そのことを思って、私は、いたずらっ子にしよう、反抗のできる子どもにしよう、というスローガンを掲げ続けてきました。その意味で「しつけ」の鋳型に子どもをはめ込むことは、新しい発想のできない子どもをつくることになります。せっかく持っている無限の可能性を型のなかに封じ込めてしまうからです。
おかあさんもおとうさんも、毎日の生活のなかでどのような創造性を発揮しているでしょうか。毎日の生活を新しくする力を持っている親たちは、自分なりに考えて(自己思考)、なんらかの新しいことを見つけ出し(自己課題の発見)、そしていきいきと生活しているものです。
ところが、毎日の生活を同じように繰り返している親たち、つまりマンネリズムに陥っている親たちの生活にはいきいきとした生活は見られません。趣味のないことも共通しています。そのような親たちは、自分の子どものころを思い出してみるとよいのです。いたずらも反抗もせず、おとなしく親の言うことをよく聞く「よい子」ではなかったでしょうか。それに、親たちにも教師たちにも認められて上級学校を卒業し、就職したり結婚生活に入ったりしているのではないでしょうか。
つまり、誤った「よい子」の価値観がずっしりと重くおかあさんやおとうさんにのしかかっているのです。そうしたおかあさんが子どものしつけに熱心となり、しかも、自分の子どもたちを問題児にしてしまったたくさんの例を、私たちは経験しています。
自由のなかでよさが発揮される
母子でカウンセリングや「遊戯療法」を受け始め、おかあさん自身の自発性が発達し始めると、子どもたちにまかせる養育態度に変わり、それとともに子どもへの遊戯療法も効果をあげて、問題が解決するのです。
その間に、おかあさんが自分を育ててくれた母親に対して反抗する状態が現れることは、非常に重要な意味を持っているのです。よい母だと思っていたが、自分をカッコよく育てていたことに気づいた母親がいました。そして、自分には真の「自由」がなかったとも述べています。さらに自分なりの人生を送るために、初めて趣味を持ったことに喜びを見出してもいます。そのときの母親の顔はとても美しく輝いていました。いきいきと生きるということが、こんなにも人間を美しくするものか、と驚いたものです。
親孝行をしなければならない、と吹き込まれたわれわれは、親を批判しては悪い、という思いにとらわれています。私がこうした親孝行意識から解放されたのは、自分の三人の子どもたちを自由のなかで育ててみて、そのいきいきとした姿に心を打たれたからであり、親を乗り越えて発達しようとしている子どもたちの意欲に感動したからです。
私は、親のことなどにとらわれずに、世界にはばたく人間になってほしいという気持ちが強くなったのです。そして、中学校を卒業したら、上級学校に行くも行かないも、自分で決めてほしいし、職業も自分で選んでほしいし、結婚相手の選択も自分でしてほしい、と子どもたちに宣言しました。
幸いにも、子どもたちはそれらをすべて実現してくれました。それぞれが自分なりの人生をいきいきと歩んでいます。それぞれの家庭がむつまじいのもうれしいことです。親はそれで満足していてよいのです。つまり、子どもの「よさ」は、何よりもまず「自由」のなかで発揮されるのです。私は、老年期に入っていますが、子どもたちに親孝行をしてもらいたいなどと思ったことがありません。こうした考え方は、これから訪れる高齢化社会のなかでの親子関係のとても大切な視点ではないでしょうか。
わが国の親たちのなかには、よい大学に入ってもらいために、幼児期から「○○教室」へ通わせたり、学校時代には塾へ通わせてよい学業成績を取らせることに奔走している者が少なくありません。そうした教育の結果は、自発性の発達に圧力をかけ、意欲が乏しく創造性のない青年をつくり出しているし、よさが発現できないのです。親にすなおに従ってきた子どもほど、この被害が大きいことをよく知っておくべきです。それが中学生、高校生、さらに大学生の登校拒否となって現れています。
急性の登校拒否児はわが国独特の現象です。しかし、思春期以後に登校拒否の状態になって親に反抗している子どもの、回復した後の人生は、とても豊かになっている場合が多いのです。私の初期の事例で、現在立派な大人になり、すばらしい創造的な研究をして、それを著作にした者がいます。これは「よさ」がはっきり現れたからでしょう。
ところが、登校拒否にもならず、なんとなく大学を卒業して社会に出て、なんとなく人生を送っている者が少なくないのは、せっかくこの世に生まれてただ一回の人生であるのに、もったいないというほかはありません。
文化への興味を育む家庭
さて、第二の豊かな文化についてですが、わが国に古くから伝わっている文化遺産を思い出せばよいのです。こうした文化遺産に対して、われわれは感動します。それは、美しい自然とともに、われわれの心を豊かにするからです。その点で親たちが文化遺産に対してどのような関心を持っているかが、子どもに影響します。