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歴代天皇事典
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歴史
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第3章 律令国家の完成から平安遷都へ

『歴代天皇事典』
[監修]高森明勅 [発行]PHP研究所


読了目安時間:35分
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 日本古代史の最大の内乱である「壬申の乱」に勝利した第四十代天武天皇は、国際的な危機意識と自身の卓越したリーダーシップにより、天皇を中心とした強力な統治体制の確立をめざした。その方針は持統天皇にも受け継がれ、国号も倭から「日本」へと改められた。東大寺の大仏の造営で知られるように、第四十五代聖武天皇をはじめとするこの時代の歴代天皇は仏教への帰依が深く、全国に寺院が建てられた。第四十八代称徳天皇が崩御すると、それまで続いていた天武天皇の血統ではない天智天皇の孫である光仁天皇が即位した。その子の桓武天皇は都を平安京に遷し、平安時代の幕が開けられた。本章では、律令国家の完成から平安遷都による新しい時代までに皇位についた、天武天皇から第五十五代文徳天皇までの歴代天皇の事績を伝える。


第四十代 (てん)()天皇


御名・異名大海人、(あまの)()()(はら)(おきの)()(ひとの)(みこと) 生没年六三一?(六七三~六八六)六八六(五十六?歳) 在位十四年 舒明天皇 皇極・斉明天皇 皇后()(のの)()(ららの)(ひめ)(みこ)(天智天皇の皇女、持統天皇)



 六七二年(天武元)、大海人皇子は飛鳥に新しい宮殿を建て、その冬、都を遷した。これがのちに飛鳥(あすか)(きよ)()(はらの)(みや)と称された宮殿である。その翌年の六七三年(天武二)、大海人皇子はその飛鳥浄御原宮で即位した(天武天皇)。


 天武天皇は生まれつきすぐれた素質をもち、成人になると雄々しく武徳にすぐれた人になった。また、天文や占星術をよく行ったという。


 天皇の天文や占星術への関心は、壬申の乱の渦中においてもいかんなく発揮された。天皇の軍勢が吉野を発ち、(あずまの)(くに)に向かったときのことである。横川という所に着こうとするころ、空に黒雲が広がり天を覆った。すると天皇は、(ぜい)(ちく)(占いに使う竹)を取り出し、自ら占った。そして、「これは天下が二つに分かれるしるしだ。しかし、最後は私が天下を取るだろう」といった。


 即位後の六七六年(天武五)にも、天文の観察や吉凶を占うための占星台を初めて建てており、その関心の深さがうかがえる。


 天皇はまた、壬申の乱の際にアマテラスオオミカミ(天照大神)を遠くから拝み、戦に勝利した。そのため即位後、(おお)(くの)(ひめ)(みこ)を伊勢神宮の斎王とした。斎王とは「いつきのみこ」ともいい、伊勢神宮に奉仕する天皇の未婚の皇女をいう。


 天皇は神の復興にも力を注ぎ、六八一年(天武十)には諸国の神社の社殿を修理させている。


 その一方で、仏教をも敬い、六七三年(天武二)に川原寺で初めて「一切経」の写経を始めた。


 また、六八〇年(天武九)に皇后の野讚良皇女が病気になると、その平癒のために薬師寺の建立を発願した。ちなみに、その薬師寺が完成するのは、文武天皇の時代である。


 六八一年(天武十)、天武天皇は、天智天皇が制定した近江令をさらに整備しようとして、新しい法典の制定を宣言した。こうしてつくられたのが「飛鳥浄御原令」である。


 天武天皇はまた、同年、国史の編纂に着手した。歴代天皇の系譜である「帝紀」や諸種の説話などを検討し、史実を確定して記録するよう命じたのである。これによって、のちにわが国最古の歴史書である『古事記』『日本書紀』が成立することになる。


 天武天皇はさらに、六八四年(天武十三)、諸氏の(かばね)を改めて、()(ひと)()(そん)宿(すく)()(いみ)()(みちの)()(おみ)(むらじ)(いな)()という「()(くさ)の姓」を制定した。


 これは伝統的な姓制度を再整備し、皇室との系譜上の距離によって諸氏族を再編成するねらいがあった。


 このように天武天皇は、天智天皇が進めた改新の政治をさらに発展、整備しながら、天皇・皇族を中心とした強力な統治体制の確立をめざした。


 ところが、六八五年(天武十四)九月、天武天皇は病気になった。そこで、三日間、川原寺や飛鳥寺などで()(きよう)させ、寺に稲を納めた。十一月には法蔵法師がオケラの煎じたものを献上した。また、同月、天皇の魂が遊離しないよう招魂(みたまふり)(鎮魂祭)も行った。


 さらに、翌年の六八六年七月、年号を「(あかみ)(とり)」に改めた。これもまた天皇が赤色を重んじたことから、病気の平癒を祈った改元だった。


 その後も、天皇のためにさまざまなことが行われたが、同年九月、天皇の病気はついに平癒することなく、崩御した。


第四十一代 ()(とう)天皇


御名・異名野讚良、(たか)(まの)(はらの)(ひろ)()(ひめの)(みこと)(おお)(やまと)()()(あめ)()(ひろ)()()(めの)(みこと) 生没年六四五(〈称制六八六〉六九〇~六九七)七〇二(五十八歳) 在位(称制四年)八年 天智天皇 ()(がの)()(ちの)(いらつめ)(蘇我倉山田石川麻呂の娘)



 大海人皇子の妃であった野讚良皇女は、皇子に従い吉野に入った。大海人皇子が戦を決意し吉野を発ち、東国に向かったあとも、皇子に従った。そして、野讚良皇女は大海人皇子とともに作戦を練ったという。


 六七三年(天武二)、大海人皇子が即位し(天武天皇)、野讚良皇女は皇后に立った。皇后になったあとも、いつも天皇を助け天下を安定させ、常に政治の面でも助言し、補佐することが多かったという。


 このように、皇后は政治についても高い能力を備え、六八六年(朱鳥元)九月に天武天皇が崩御したあと、即位の式は挙げなかったが、政務を執り続けた。いわゆる「称制」(新帝が即位の儀を行わずに政務を執ること)である。


 同年十月、天武天皇の皇子である(おお)(つの)()()の謀反が発覚し、持統天皇は皇子を処刑した。大津皇子の母は(おお)(たの)(ひめ)(みこ)といい、天皇の姉にあたる。大津皇子は文武にすぐれ、政治にたずさわり、天武天皇を助けた。周囲からの人望も厚く、皇太子の(くさ)(かべの)()()(持統天皇の皇子)に次ぐ地位にあった。

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