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歴代天皇事典
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歴史
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第4章 藤原摂関政治の始まりと終焉

『歴代天皇事典』
[監修]高森明勅 [発行]PHP研究所


読了目安時間:32分
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 第五十六代清和天皇は幼帝であり、代わりに外祖父の藤原良房が摂政として全権を握った。人臣摂政の始まりだ。こうして藤原氏の摂関政治が始まり、道長の時代に全盛期を迎える。その間、歴代天皇は藤原氏へ遠慮したり対立したりした。第五十九代宇多天皇は藤原基経と対立し、菅原道真を重用して律令国家の再編のために親政を行った。その宇多天皇は譲位後、出家して最初の「法皇」になった。第七十一代後三条天皇のときに宇多天皇以来百七十年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇が即位した。本章では、藤原摂関政治が繰り広げられ、やがて終焉を迎える時代に皇位についた、清和天皇から後三条天皇までの歴代天皇の事績を伝える。


第五十六代 (せい)()天皇


御名・異名(これ)(ひと)(みずの)()帝、素真 生没年八五〇(八五八~八七六)八八〇(三十一歳) 在位十九年 文徳天皇 藤原明子 女御藤原(たかい)()(藤原長良(ながら)の娘)、藤原()()()(藤原良相の娘)ほか



 文徳天皇が急逝し、皇太子の惟仁親王が即位した(清和天皇)。御年九歳。初めての幼帝の登場である。当然、清和天皇は政治を見ることができず、代わりに外祖父の藤原良房が実質上の摂政として全権を握った。


 摂政とは、天皇に代わって政務を行う官のことで、天皇が幼少であったり女帝であったりしたときに皇族がその地位についた。過去の例では、応神天皇のときの神功皇后や推古天皇のときの聖徳太子が挙げられる。皇族以外で摂政となったのは、良房が最初である。


 幼帝が出現した背景には、皇位の権威が確立し、皇統も安定した事実があった。


 八六六年(貞観八)三月、平安京の応天門が炎上した。大納言の(ともの)(よし)()は、この炎上が左大臣・源(まこと)の放火によるものだと訴えた。ところが、良房の工作によって信は無実となり、逆に善男の子・(なか)(つね)が罪にきせられた。そして、善男の一家をはじめ、共謀者とされた紀豊城らが流罪になった。これが「応天門の変」と呼ばれる疑獄事件である。


 善男は古代の有力氏族・大伴氏の後裔であり、その祖父や父は藤原種継事件のときに罰せられた。しかし、善男は仁明天皇の信任を得て要職につき、清和天皇になってからも重用され、八六四年(貞観六)に大納言に任命された。


 大納言は、行政の最高機関である太政官の次官のことで、天皇のそばに仕え、さまざまな政務に参画し、大臣が不在のときは代わって政務を行った。


 その要職の大納言に昇進した善男は、左大臣の信と権力を争っていたが、その矢先の炎上事件であった。


 この事件によって、名門の大伴氏は没落し、紀氏も中央政界から退けられた。また、無実とされた信も事件のあとは出仕することがなくなり、狩猟にあけくれたという。


 こうして、藤原氏に対抗できる有力氏族が力を失ったことで、藤原氏の一門に中央権力が集中し、朝廷支配体制が確立された。そして同年八月、良房が正式に摂政に任命された。この時期の良房を中心にした藤原氏の政治は、「前期摂関政治」と呼ばれている。


 八七二年(貞観十四)九月、良房が亡くなったが、その二か月後には、良房の兄・長良の子であり、良房の養子になった(もと)(つね)が摂政に任命された。


 八七六年(貞観十八)十一月、清和天皇は皇位を皇太子の(さだ)(あきら)親王(次の陽成天皇)に譲った。そして八七九年(元慶三)に出家し、翌年、崩御した。享年三十一の若さだった。


第五十七代 (よう)(ぜい)天皇


御名・異名(さだ)(あきら) 生没年八六八(八七六~八八四)九四九(八十二歳) 在位九年 清和天皇 藤原高子 皇后(やす)()内親王((よし)()(じよ)(おう)、光孝天皇の皇女)



 清和天皇から皇位を譲られた貞明親王が即位した(陽成天皇)。陽成天皇もまた、父の清和天皇と同じく九歳で即位した。そこで、母の藤原高子の兄である藤原基経が摂政となり、すべて政務を行った。


 八八〇年(元慶四)十一月、基経は関白になり、さらに翌月、太政大臣になった。関白とは、天皇より先に奏上を見て、天皇を補佐する官のことである。天皇が幼少のときは摂政といい、成長後は関白という。


 陽成天皇には乱行、奇行が多かった。『神皇正統記』によれば、性格が荒々しく帝王の器にふさわしくなかったという。また、『愚管抄』には、「もののけによるわざわいがひどく、狂気のふるまいはことばにできないほどだった」と記されている。


 陽成天皇はこうした乱行、奇行によって基経ら群臣を再三悩まし、何度も譲位を迫られた。そして、ついに八八四年(元慶八)、基経によって皇位を廃され、二条院に遷された。その際、基経は陽成天皇に「花見の行幸」といつわり内裏から連れ出したという。


第五十八代 (こう)(こう)天皇


御名・異名(とき)(やす)、小松帝 生没年八三〇(八八四~八八七)八八七(五十八歳) 在位四年 仁明天皇 藤原沢子 女御(なか)()(じよ)(おう)(桓武天皇の孫)ほか



 陽成天皇が十七歳で皇位を廃されたあと、仁明天皇の皇子で五十五歳の時康親王が即位した(光孝天皇)。光孝天皇の即位を支持したのは、実力者の藤原基経である。


 基経は天皇を幼い頃から見守っていた。ある日、藤原良房の大宴会があり、そこに天皇(時康親王)も基経も臨席した。すると、配膳係が主賓の良房の御前に、大宴会には欠かすことのできない(きじ)の足を出し忘れた。配膳係がそれに気づき、光孝天皇の御前から雉の足を取り、良房の御前に据えると、天皇は御前の燈火をそっと消した。配膳係の落ち度を隠した天皇の様子を見て、基経はすばらしい方だと感嘆したという。

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