読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン
0
-1
kiji
0
1
1200848
0
頭のよい子は「ことば」で育つ
2
0
0
0
0
0
0
くらし
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
1 くりかえしきくことばによって、モノゴトはココロになる

『頭のよい子は「ことば」で育つ』
[著]外山滋比古 [発行]PHP研究所


読了目安時間:9分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ

〓 豊かな心を育てるのは音声のことば



 このごろ、こどもの心をはぐくもう、ということがしきりに言われるようになった。おもしろくないことをするこども、とんでもない感じ方をするこどもが急に多くなったのがきっかけであった。十年くらい前からのことである。


 心をはぐくもう、豊かな心を育てよう。そう言われても、どうしてよいかわからないのが一般である。これまで、そんなことは考えたこともなかったのだから当然かもしれない。


 心などと気軽に口にするが、いったいどこにあるのか、どういうものか、見たことのある人もいないのだから、始末が悪い。


 いくら豊かな心を育てよう、と言われても、これでは手も足も出ない。さすがに、心を教えようとは言わない。育てよう、はぐくもうである。教えるのとはぐくむのは違うようだが、実はあまり違わない。はぐくむのも教えるひとつの形である。だからといって、ものを教えるように、心を教えることができないのははっきりしている。だからこそ、心をはぐくむと言うのである。言いたくても、心を教えるなどとは言えない。


 こう考えてくると、心をはぐくむというのが、どうしたら可能になるのかわからなくなる。それで、これまで、心を育てるということが、はっきりした、目に見える形で行なわれてこなかったことが納得される。


 心はどうして生まれるのか。これが問題なのである。


 心について考えるのに、ひとつの手がかりを与えてくれるのが、野生児である。


 野生児とは生まれて間もないときから、かなりの期間にわたって、人間的な環境をうばわれて野生の生活を送ったこどものことである。


 野生児の話は古くからいろいろあるが、もっとも信頼できる例は、南フランスで発見された十二歳の子である。「アヴェロンの野生児」として知られている。ほかにも、オオカミに育てられたというインドの二少女の話がもっとも有名であるが、事実にいくらか疑問視されている。


 野生児に共通する特徴としてあげられるのは、つぎのような点である。


●音声のことばをもっていない。

●感覚や感受性が異常である。

●情緒的発達が遅れて、泣いたり、笑ったり、涙を流すことがない。(しゆう)()(しん)を欠く。

●自閉的で、対人接触に問題がある。



 野生児は発見されてから行なわれた教育の記録の残っているものがすくなくない。とくに「アヴェロンの野生児」については医師イタール(Jean Marc Garpard Itard)、インドの二少女については牧師シング(J.A.W.Singh)の養育日誌が公刊されて大きな反響を呼んだ。


 野生児に見られる特徴は、先述のようなものであるが、見落としてはならないのは、いわゆる“心”を充分、あるいはまったくもっていないこと。そして、もうひとつ、音声言語が習得されなかったことである。文字はある程度、教えられたのに、音声言語はとうとう習得されなかった。


 このふたつのことは、相互に強い関係にあるように思われる。ことば、声に出して言うことばと心の発達には深い結びつきがあるからこそ、一方が身につかないと、他方もはぐくまれないのであろうと想像される。つまり、話しことばがなくては心は育たないといってよいように思われる。


 ことば、音声がなくても心が発達するものなら、野生児には、人間的感情、気持、つまり心ができていなくてはならないはずである。


 発見されてからいくらことばを教えようとしても、文字はある程度、覚えることができるのに、音声のことばがどうしても習得できなかった。というのは、心を欠いているからであろう。


〓 ことばを教えられないこどもは死んでしまった!



 こうして、話すことばと心とがしっかり結びついていることを認めるならば、ことばによって、ものごころがつくのは自然の道理となる。ことばが何とかできる、話しことば、音声のことばが曲がりなりにせよわかるようになると、こども心が芽生える。それはごく早い段階である。


 昔の人が、「()()(たましい)」ということを言った。三つになれば、精神的な組織がかたまる。それは個性といってもいいものである。三つ子のことばが、三つ子の心をはぐくむというわけである。それが、「三つ子の魂百まで」と言われるように、その人の一生を律するほどの力、心になる。


 心をはぐくむのは、ことばである、ということを認めてよい。そのときのことばは、文字ではなくて、声のことばでなくてはならない。ことに、愛するものからかけられたことばであるのが望ましい。文字のことばではそれが充分でない。文字では気持が直接的に伝わらないためであろう。


 このように考えてくると、生まれた直後からこどもがまわりの人たちの心のこもったことばをきくというのが、いかに大きな意味をもつかがわかる。すべての始まりがそこにある。


 ここでちょっと、もとへ戻って、昔のある語り伝えのことを記しておきたい。


 かつてヨーロッパにレオポルド三世という国王がいて、各国のこどもが民族によって違ったことばを話すようになるのは、まわりの大人がそれぞれの言語を話しきかせるからである。もし、まわりが何も話してきかせなければ、こどもはめいめい内なる“神のことば”を発するようになるにちがいない──そういう途方もないことを考え、あろうことか、これを実際にためしたのである。健康なこどもを何人も集め、いたれりつくせりの保育をしたが、ことばだけは一語も発してはならぬと係り、まわりのものに命じた。


 その結果、こどもたちは、ひとことも発することなく、大きくなる前にみな亡くなってしまったと言われている。これは、ことばがいのちの泉であることを暗示する。人のいのちを支えるのが心だとすれば、ことばをまったく教えられない子が生きられなくても不思議ではない。こういうことは人道上の問題だから、以降、二度と試されることはなかったが、ことばが人間の発達、成育にとっていかに大切であるかをよく示している。


 それでは、ことばがどうして心をはぐくむことになるのであろうか。それを考えてみる。


 ことば、音声のことばを、一度きいただけで覚えることはできない。同じようなことばを、くりかえしくりかえし、相当の期間きいていると、おのずから、わかるようになる。


 わかるというのは、意味のことである。音声そのものには意味はない。それをくりかえしきいていると、それがあらわす意味がおのずからわかるようになる。心の理解である。


 赤ん坊は、だれからも、イヌということばの意味を教わらないで、イヌという意味を体得する。イヌという音声は物理的な音響であるが、それをくりかえしきいていると、おのずから心理的なものが生じる。それが意味である。ここにモノがココロになるきっかけがある。人間のもっともすぐれたところは、このものごとを心へつなぐ心的活動にあるといっても過言ではない。


 ことばに限らず、経験が精神的なものに昇華していく過程にはルールがある。


 いかなるものごと、行為も、一度だけではほとんど意味がない。はじめてのことは、見れども見えず、きけどもきこえない状態にある。


 ところが、同じことをくりかえしくりかえししていると、半ば無意識でできたり、わかったりするようになる。それを継続すると、習慣ができる。この段階で、すでにそのものごと、ことばは心理的なものになっている。


 ヨーロッパの人が「習慣は第二の天性である」とのべたのは、このことである。先にものべたが、わが国で“三つ子の魂”というのも、その初期の段階をとらえたことばである、と言ってよい。


〓 気持のこもった話しことばが心をはぐくむ



 経験が法則、習慣化し、さらに心に及ぶところをもっともよく示すのがことばである。断っておかなくてはならないのは、話すことばであって、文字ではないことだ。


 さらに、気持をこめて用いられることばでないとまずい。テレビも声を出す。ことばを使う。しかし、テレビでは、心をはぐくむことは難しい。きく側の状況とはかけはなれたところで発せられたことばは、気持を伝えにくい。やはり面と向かった人からのことばが心につながるのである。


 幼い子に文字を教えるのを、いかにも、りっぱなことのように考える向きがふえているのは困ったことである。文字もことばではあるが、声に比べて、気分、気持、思いといったものがはるかに稀薄である。文字からそういう心を読みとるには長い間のことばの訓練を要する。生まれて間もない子にはとても無理である。


 文字信仰ともいうべきものは学校教育によって(つちか)われるもので、現代のように、学校教育が高度に普及すると、どうしても、肉声、話しことばを軽んじる傾向が強まる。


 しかし、心ということからすると、声のことばは文字とは比べものにならない大きな力をもっている。これを馬鹿にしてはロクなことはない。


 心をこめたことばは、まず、声になる。それをきかないで育つのは、こどもにとって、たいへんな不幸である。テレビの影響を強く受けて育ついまのこどもの心が寒々として、あたたかみに欠けることが多いのはいたしかたないのかもしれない。


 このように、心とことばは分かちがたく結びついている。そうだとすれば、心をはぐくむのは、ことばによるほかないのはおのずから明らかであろう。


 こどもの心を豊かにするには、まわりで、豊かな気持のこもったことばを話しかけてやるほかに手はないのである。こどもの心が荒れているのは、こどもを取りまく環境に、血のかよったことばが欠けている結果であるのではないか。もし、そうだとすれば、一朝一夕に、こどもの心を豊かにすることは困難である。


 よい子を育てたかったら、まわりの大人がよいことば、心のこもったことばを使わなくてはならないことになる。それをここ五十年、われわれの社会、家庭は忘れていたのではないかと思われる。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:0文字/本文:4034文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次