『仏教・キリスト教 死に方・生き方』
[著]玄侑宗久
[著] 鈴木秀子
[発行]PHP研究所
お釈
さまは「死」を語らなかった
玄侑 私は今、「死の周辺での心の交流」をテーマに執筆活動をしているのですが、これは鈴木先生の、死と向き合う活動と一致するように思います。
死について意識できるのは人間だけだといわれますね。だけど「死」について、まともに質問されることはめったにないんです。みんな意識はしても、あまり考えたくはないのでしょう(笑)。
鈴木 たしかにそういう部分はありますね。
玄侑 実際、質問されてもよくわからない。死んだことがないからわからないんです。お釈さまも、死後、人間がどうなるかについてはいっさい語らなかったといいます。「あいつはわからないから話せないだけだ」と非難されても、ずっと沈黙を守られた。
鈴木 語ってもわからないから、語らなかったのではないでしょうか。
玄侑 そうでしょうね。結局、死の過程で起こることは意識の変容であって、そういう特別な意識状態というのは、ふだんと同じ理知的な意識状態にある人には、どんなに説明してもわからないと思います。
もっと簡単にいえば、死というのは言葉が届かない世界ですから、言葉では語れない。やはりそれは、自分自身が死に直面して初めてわかるものだと思うんですね。ところが時代が流れて、特に共産主義を体験した後は、「わからないことはないことと同じ、だから死後の世界などありえない、信じない」と考える傾向がすごく強くなりました。
鈴木 そういう考え方が知的だと思われるようになりましたね。
玄侑 だからこういう時代にあっては、やはり鈴木先生とか私のような立場にある人間が死について語り始めなければいけない。わからないまま、ほうっておいてはいけないという感じがしています。
鈴木 死について語ると、何かうさんくさいような目で見られるのは残念ですね。
死んだら生まれ変わるのか
玄侑 キリスト教では、死ねば人の魂は天国に召されると考えているでしょう。
鈴木 聖書のなかには地獄の話も出てきます。だけど、地獄にまつわる話は、どうも道徳と結びついているようですね。神学と外れるかもしれませんが、私は、人は誰でも許されて、神のもとに召されると考えています。
子どもを愛する親が「この子は悪いことをしたから永遠に地獄に追放する」と言って、我が子を見捨てて満足するでしょうか。どんな親でも我が子が人間の道からそれれば、その子に特別な思いをかけ、その子がまっとうな人間になるように望み、力の限りを尽くすものでしょう。神は、ご自分の子どもである一人ひとりを親以上に愛し抜かれているとおっしゃっています。愛そのものの神が、愛し抜いている我が子を見捨てるでしょうか。
玄侑 仏教では死のことを「四大分離」というんです。「四大」というのは、地、水、火、風という大きな四つの働きのことです。「地大」は骨や爪の堅さをつくる働き、「水大」は血液やリンパ液などの液体をつかさどる働き、「火大」は体温を保つ働き、「風大」は手足や心臓が動く働き。この四つが縁によって集まることで人間は誕生し、縁がほどけて分離することが「死」であると。
鈴木 文字どおり、肉体の機能が分離してしまうのですね。
玄侑 だから「死ぬ」のは「ほどける」こと。前にも申しましたが、「仏」の語源も、もともとはそのあたりにあるのではないかと私は思っています。
鈴木 「ほどける」というのはうまい表現ですね。
玄侑 死ねば肉体はほどける。だけど、そんなことはもう誰でも知っています。みなさんが知りたいのは、死んだ後、魂がどうなるかということでしょう。「魂」という言葉は、もともと中国の言葉です。中国の死生観は日本とは違いますから、あまりこの話をすると混乱すると思うんですけれど、簡単にいえば、中国では死者の世界は「鬼」という言葉で表現される。「幽界」のことですね。幽界の場所は山の上だったり川のなかだったり、丑寅の方角だったり地域によってさまざまですが、とにかく暗くて寒い場所です。
鈴木 何やら恐ろしげですね。
玄侑 鬼の住み処ですから。鬼に角を生やしてパンツをはかせたのは日本人ですけど(笑)。
鈴木 本来の仏教には「極楽」という発想はなかったわけですね。
玄侑 中国ではやはり浄土教が誕生してから「極楽」がクローズアップされてくるんですね。極楽とともに地獄も生まれたわけですが、浄土教では、阿弥陀仏を信仰しさえすれば誰でも極楽に行けると教えました。そのせいでしょうね。日本ではほとんどの人が「死ねば極楽に行ける」とか「死んだ親は極楽にいる」と信じ込んでいるようです(笑)。
鈴木 仏教には「輪廻」という考え方もありますね。
玄侑 ええ。インドやネパールでは一般的です。死ねば何かほかの生き物に生まれ変わり、新しい肉体をもてる。だけど、そういう考え方は仏教が中国を通過する過程で排除されました。
鈴木 自分のご先祖がウマやブタだったり、自分が虫けらに生まれ変わったりするのがいやだったのでしょうね。
玄侑 先祖を大切にする国ですから。だけど、インドの人はそう考えない。もっと自由です。死んでしまえば、もうそれまでの肉体には用がないわけです。だから、死んだ人はどんどん燃やしてしまいますね。そういえば、キリスト教ではごく最近まで火葬を認めませんでしたね。
鈴木 ずっと土葬でした。日本でカトリックの人たちが火葬をするようになったのはバチカン公会議の後なので、四十年くらい前からではないでしょうか。今でも火葬をしない国はたくさんあります。
玄侑 天国入りを待つ肉体を燃やしてしまうなど、とんでもないと。日本でも、最初に火葬が行なわれたときは残酷だというのですごい抵抗があったようですよ。だけど、やはり浄土教の登場で、極楽浄土という発想が広がってからはあまり抵抗がなくなった。浄土教というのは、死後のビジョンを明示する点ではすごい宗教です。
魂には重さがある?
鈴木 科学的にものごとを考える人から見れば、そういう考え方は非科学的ということになるのでしょう。だけど、最近では「魂」を科学的に研究しようという試みも進められていますね。
玄侑 アメリカなどでは魂の重さを計るということも行なわれています。人が死ぬ瞬間、体重が減るというのですが、いったい何グラム減るかということですね。私が調べた限りでは、数グラムから四十グラムまでいろいろな数値が出ているようです。