読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

犬耳書店はRenta!へ統合いたします

(2021/9/29 UP)

犬耳書店は、姉妹店のRenta!(レンタ)へ統合いたします。
詳しくはこちらでご確認いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

0
-2
kiji
0
0
1201669
0
仏教・キリスト教 死に方・生き方
2
0
0
0
0
0
0
生き方・教養
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第四章 修行を積めば悟れるか

『仏教・キリスト教 死に方・生き方』
[著]玄侑宗久 [著] 鈴木秀子 [発行]PHP研究所


読了目安時間:37分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ

〓価値基準は絶対ではない


鈴木 私はこの間、フィリピンに行ってきました。

玄侑 どういう目的で行かれたんですか。

鈴木 台湾のシスターの修道会が、フィリピンに(しゆう)(れん)院を設けているのです。

玄侑 台湾の修道会がマニラに?

鈴木 はい。本部はアメリカですが、台湾にも修道会があって、そこがフィリピンに若い人たちの訓練をする修練院をつくった。なぜかというと、今、中国本土から大勢の若い女性がシスターになりたいと志願してくる。でも、台湾には入れないでしょう。

玄侑 ああ、だからフィリピンに……。

鈴木 そこに今、四十五人くらいいるのですが、そのうちの三人が(しゆう)(せい)(せい)(がん)といって「自分は終生、結婚をせず、私物ももたず、戒めに従って自分を神に(ささ)げます」という最終の誓願を立てることになったのです。一度、その誓いを立てるとローマ法王からの許可がないと解かれないですから、かなり重要な儀式ですね。彼女たちは八日間、沈黙の(ぎよう)をして最後の修練の場があるのですが、その指導をするために行きました。


 それで二週間くらい向こうにいました。覚悟のうえですから、修練はあまり苦にはなりません。ただ暑かったですね。何しろ夏の終わりのいちばん暑いときに行ったものですから、湿気が多くて、もう息もできないくらいでした。

玄侑 気温はどのくらいですか。

鈴木 四十度くらいではないでしょうか。とにかく湿気がひどくて。成田に着いたときには「日本はなんていい国だろう」としみじみ思ったものです。どこもみんな整然としているし、緑はきれいで風はさわやかだし、道路はきれいだし、歩いている人の服装はみんなきちんとしているし、マナーもちゃんとしているし……。


 ところが、それから思い出したのです。昔、アメリカにいて、日本に帰ってきたときのことです。アメリカに住んでいたころは、ワシントンのけっこういいところとか、カリフォルニアの広々としたところに住んでいたものですから、日本に帰るなり「まあ、なんてちまちました国だろうか」と。建物もちまちましているし、どこへ行ってもちっちゃな部屋ばかりで「なんと住みにくい国だろうか」と。帰国後、しばらくはそういう感覚でいましたね。だんだん慣れて、そんなことも忘れてきましたけれど。

玄侑 なるほどねえ。

鈴木 それで思ったのです。同じ成田に着いたのに、アメリカから帰ってくるのと、マニラから帰ってくるのとでは、どうしてこうも違うのか。その二つの体験を自分で比べてみて、やはり人間は体験というか、五感で吸収したものが体のなかに積み重なっていくのだなあと思いました。私たちは常に、自分にとっての強烈な体験を基準にしてものごとを考えていくんだなあということを改めて感じたのです。

玄侑 自分なりのスタンダードを、自分のなかにつくっちゃうんでしょうね。(ゆい)(しき)でいう「(くん)(じゆう)」された意識の傾向というやつですね。

鈴木 だから私はフィリピンから帰って、自分の感覚がどれほどあいまいなものなのかを思い知って以来、過去のいろいろなことを思い出して、つくづく考えました。人間というのは、自分を常に何かと比べながら生きていて、その基準が絶対だと思い込んでしまう。でも、それは間違いなのだなあと……。

玄侑 だけど、現実には毎日の生活のなかでそういう基準がつくられ続けていくんですよね。


〓トイレ掃除はなんのため?


鈴木 悩んだり苦しんだりしている人たちに接しているとよく思います。自分だけが全世界でいちばん不幸だと感じてしまうと、そうした思いがますますその人を追い詰めてしまうことがあります。そういう人が大勢集まったときに、誰かが「自分はこういう苦しみに(さいな)まれている」とか「こんなことがあってこんなにつらい」という話を始めると、ほかの人も語り出しますね。そうやってみんながどんどん語り続けるうちに、「ああいう苦しみもある」「あの人もあんなに苦しんでいる」というのがわかって、「自分の苦しみなんてこれっぽっちだったと感じます」と言う人が多いのです。

玄侑 ケガをして病院へ行くと、待合室に行くまではものすごく大変なことになったと思っていたのに、もっとひどい姿の人がたくさんいたりして……。それと似ていますね。

鈴木 人間の苦しみの基準も、見方や視点を変えれば変わってくると思います。価値観も、判断力もそうですし。


 私は女子大で長いこと教えているのですが、学生や卒業生のなかには失恋して自殺未遂なんてことをしかねない人もいます。そういうときは、(さん)()に手伝いに行くことをすすめます。ご飯の炊き出しとか、おにぎりを握るとか。そこで一週間、奉仕活動をして帰ってくると、みんな失恋の苦しみなんて忘れてしまっていますよ。

玄侑 そのために「トイレを毎日、掃除しなさい」なんて言う人もいますね。あれもやっぱり基準がかなり変わるんですよ。私らも道場に入ると、新入りは毎日トイレ掃除なんです。「()められるほどきれいにしろ」と言われるんです。しかしそうやって掃除していると、トイレが汚いという感じはだんだんしなくなりますね。「きれい、汚い」という感覚がなくなると同時に、それでもやっぱりトイレですから、そこがスタンダードになっていくというか。すると、それまで出ていた不平不満が出てこなくなる。


 禅寺の修行にもそういうところがあるんですよ。世間ではわかってもらいにくいのですが、たとえば掃除がありますね。ふつう掃除というのは「きれいにするため」という目的論で解釈されるわけです。目的があるわけですから、始めがあって終わりがある。でも、禅寺の掃除は違うんですね。結果としてきれいにはなるけれど……。

鈴木 ああ、目的ではなくてプロセスなのですね。

玄侑 プロセスだし、目的じゃないからいつ終わってもいい。たとえば庭の落ち葉を()く。あそこまで徹底的に落ち葉を掃く文化は、おそらく世界を見てもほかにないと思います。なんのために掃くのかを考えると、むしろ掃かないほうがいいという考え方だってできる。だって、掃かないでおけば落ち葉はそこで()(よう)()になって大地に帰るんだし、一ヵ所に集めて土のなかに埋めておけば栄養分になるじゃないですか。だから、何かのために、きれいにする目的のために掃いているのかというと、そうじゃないんです。


〓目の前に現れるもう一人の自分


鈴木 修道院には「沈黙の行」といって、何日もの間、誰とも話をしないで過ごす行があるのですが、禅の修行にも「荒行」があるでしょう。何日も寝ないで過ごしたり。あれはつらくはなかったですか。

玄侑 最初はつらいです。たとえば一週間続けて、ほとんど寝ないで()(ぜん)を組んでいたりすると、もう動きたくてしょうがなくなる。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:15440文字/本文:18244文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次