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お江戸の職人(エリート) 素朴な大疑問 今に伝わる「技」から「粋」で「いなせ」な暮らしぶりまで
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雑学
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町人文化を支えた江戸の職人たち

『お江戸の職人(エリート) 素朴な大疑問 今に伝わる「技」から「粋」で「いなせ」な暮らしぶりまで』
[著]中江克己 [発行]PHP研究所


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◆江戸職人のはじまり


 木の香も豊かな木製の(おけ)()(づくえ)()(ばこ)などの(さし)(もの)()()(くし)、竹の皮を編んだ(ざる)(かご)、小紋や浴衣といった染物、塗物の(わん)など、いま伝統的な手づくりの工芸品、日用品が見直されている。


 江戸職人たちの技術と伝統はいまでも受け継がれているが、そこにあるのは丹念な手仕事で生み出された繊細な美の世界だ。それよりも何よりも、そのようにしてつくられた工芸品、日用品は手にぴったりきて使いやすい。だからいまも愛好者が少なくない。


 江戸では中期から後期にかけて、多様な町人文化が栄えたが、それを陰で支えてきたのも、(いき)でいなせな職人たちだった。


 江戸という町は徳川家康が入府し、幕府を開いて以来、城下町がつくられ、発展しつづけた。そうした一方、大工や左官、染物師など、さまざまな職人が諸国から江戸にやってきて、町づくりに力を尽くし、江戸城での将軍や奥女中たちをはじめ、大名や武士たちの生活を支えた。


 当初、職人たちは同業者が同じ地域に住み、職人町をつくりあげた。それは幕府が各業種の親方を「(くに)(やく)請負人」に任命し、一町(約九千九百平方メートル)の土地と屋敷をあたえたことにはじまる。やがて各業種の職人たちは、親方の近辺に住み、たとえば大工町、紺屋町、()()町、桶町などと、業種名を冠した職人町ができていったわけだ。


 ところで、「国役」というのは、幕府が職人町に課した賦役で、一年のうちの一定日数は御用をつとめるというものだった。つまり、一種の税金としてある日数、無償労働を強いられたのである。しかし、江戸の城下町建設が一段落すると、「代役銭」といって、金銭を支払ってすませる制度に変わった。


 さらに時代の流れとともに、狭い町内に住む職人たちのあいだで競争が激しくなる。しかも、たびたび火災に襲われ、移転を余儀なくされる者も出てくる。こうして、一か所にまとまっていた職人たちがばらばらになり、職人町だったことを示す町名が残るだけになった。


◆神田を中心にできた職人町


 職人たちが住んでいたのは、主に神田地域、京橋地域だった。


 まず、大工町(千代田区内神田三、神田鍛冶町二)だが、これは神田橋御門の東方にあった大工の町である。寛永年間(一六二四~四三)に成立。その後、元禄年間(一六八八~一七〇三)以後に竪大工町(内神田三、神田鍛冶町二)、横大工町(千代田区神田多町二、司町二)に分かれた。


 神田紺屋町(千代田区神田紺屋町)は、染物屋の町である。慶長年間(一五九六~一六一四)のことだが、家康は幕府御用の紺屋頭土屋五郎右衛門に関八州、伊豆の(あい)買付を許し、神田のこの地をあたえた。やがて藍染職人が集まり、紺屋の町となったのである。


 神田鍛冶町(千代田区神田鍛冶町)は、慶長八年(一六〇三)に成立。幕府鍛冶方棟梁の高井伊織、鋳物師椎名伊予らに与えられ、鍛冶師や鋳物師、釜師などが集まり住んだ。江戸の工業地帯だった。


 左官が多く住んでいたのが神田白壁町(千代田区鍛冶町二、神田鍛冶町三)。その近くには神田鍋町(千代田区鍛冶町二、神田鍛冶町)もあった。


 二枚の板を麻縄で組み、荷物を背負いやすくする道具を「(れん)(じやく)」というが、これをつくる職人が多かったのは神田連雀町(千代田区神田須田町一、神田淡路町二)。ほかに、連雀を使う香具師(やし)や行商人も多く住んでいた。


 〓(ろう)(そく)は当時の生活必需品だが、神田〓燭町(千代田区神田司町二丁目)には、多くの〓燭職人が住み、製造と販売を行なっていた。


 神田地域のほかにも職人町がある。たとえば、()(びき)町(中央区銀座)は江戸初期、江戸城の修築工事で働く木挽(()()で木材を挽く職人)が多く住んだ。ついでながら正徳四年(一七一四)の絵島事件は、木挽町六丁目の山村座が舞台となった。


 江戸城の外堀に面する桶町(中央区八重洲二)は、桶職人の町だ。寛永十八年(一六四一)、この地から出火した大火は「桶屋の火事」と称された。


 このようにさまざまな職人が江戸に住みつき、屋敷や長屋、家具、日用品をはじめ、衣服や装身具、髪結、料理、菓子など、すべての物をつくり出した。それとともに、粋でいなせな気風をつくりあげ、江戸の町人文化を生み出す母胎ともなったのである。


◆職住が近接する作業現場


 職人には、大きく分けると「()(じよく)」と「()(しよく)」とがあった。居職というのは、主に家のなかで仕事をする職人である。たとえば、日常生活に必要な桶、笊、鍋、釜、衣類、下駄などをつくる職人は、いずれも居職だ。


 出職は外へ出て働く職人で、大工や左官のような人たちだった。


 ところで、江戸に多かったのは、普請(建築)にたずさわる職人である。木挽、大工、(とび)(仕事師)、左官、屋根(ふき)、瓦師、(たたみ)(ざし)(畳職)、造作大工(天井、床板、階段、棚、敷居、鴨居などをつくる大工)、経師(表具師)、建具大工(戸、障子、(ふすま)などをつくる大工)だが、江戸前期には城下町づくりが盛んだったから、こうした職人の需要は低下することがなかった。


 職人のなかでも、とくに大工や鳶は藍染の仕事着を着ていた。紺木綿でつくった股引に腹掛、(はつ)()など。腹掛は前面下部に共布の「どんぶり」(ポケット)をつけたもので、背部は共布を斜め十文字に交差させてとめる。


 さて、職人たちは一日何時間ぐらい働いたのだろうか。


 一般的にいうと、大工や左官などの職人は、朝六つ半(午前七時)に作業現場にきて、夕方七つ半(午後五時)ごろまで働く。しかし、昼四つ(午前十時)の小休み(一刻=約三十分)、(ちゆう)(じき)(昼食。半時=約一時間)、昼八つ(午後二時)の休み(一刻)があるから、実質的な一日の労働時間は八時間ほどだった。


 ただし、昼が短い冬季にはさらに短くなり、一日四時間ほどしか働かない。


 これは通常の場合で、大工など仕事によっては、急ぎのときには朝早く出勤することがあった。このようなときには手間賃が増額されるし、夕方遅くまで働くときには、いまでいう残業手当がもらえた。


 それに、いくら出職といっても、いまのように通勤に一時間ということはない。職住が近接していたから、作業現場までの時間は少なくてすむし、移動で心身が疲れることもなかった。


◆十年の修業で一人前


 では、どのようにして職人になることができたのか。


 職人になるには、十歳前後の子どものころから親方に弟子入りをし、住込みで掃除や子守、使い走りなど雑用をこなしながら、少しずつ仕事を覚えた。これを(でつ)()奉公といい、十年くらいつづいた。


 朝は夜明け前に起き、掃除や(すい)(はん)をする。日中は、仕事の雑用、家事などの手伝いをしなければならないし、夕方にはふたたび食事の仕度をする。その後も仕事の手伝い、後片づけなどで、ときには夜遅くなることもあった。


 こうした忙しさのなかで、弟子たちは一人前になるために、親方や先輩の仕事を盗み見て、その技術を覚えていく。仕事について具体的に教えてもらえることは、ほとんどなかったのである。だから誰もいない仕事場で、ひそかに練習をする、ということもあったようだ。


 弟子たちは、食事は食べさせてもらえるし、衣服ももらえるが、日当(手間賃)はないし、わずかな小遣銭をもらえるだけ。休日は(やぶ)入りといって、正月と盆の二回、暇をもらうのが大きな楽しみだった。


 どのような職種であれ、少しずつ仕事にかかわり、ある程度できるようになるには七、八年は修業しなければならない。


 たとえば、左官の仕事は「才取り」→「土こね」→「調合」→「(こて)塗り」と進む。弟子入りしたばかりのころは、道具を洗ったり、鏝を磨くなど、雑用をやらされ、その後、やっと「才取り」といって、壁土を棒の先の板にのせ、足場の上にいる左官に渡す、という仕事をする。順番に技術を習得するのに、六、七年は必要だった。


 こうして一人前になっても、すぐ独立できるわけではない。御礼奉公といって、一年間、そのまま働きつづけるのだ。御礼奉公が終わると、親方は弟子に新しい道具一式をあたえ、送り出したのである。


◆職人の稼ぎ


 気になるのは、職人たちの稼ぎである。居職の場合、自分でものをつくり、自分で値をつけて売るという職人がいたし、(おお)(だな)からの注文品を自宅でつくるという職人もいた。だから具体的な収入は、よくわからない。


 そうした一方、出職はほとんどが「()()(どり)」である。つまり、一日いくらという手間賃をもらって雇われたのだ。当初は、江戸の町づくりが進んでいたから手間賃はよかった。


 その後も明暦三年(一六五七)の明暦の大火を境に、手間賃が高騰している。この大火は江戸城本丸をはじめ、江戸市街地の六割を焼き尽くしたが、後始末がすむと、市中の各地で復旧工事が活発に行なわれたからだった。


 そこで幕府は、大工、屋根葺、左官、石切、畳刺などの職人は、一人一日飯料込みで銀三(もんめ)(約五千円)、木挽は銀二匁(約三千四百円)を上限とする公定賃銀を定めた。


 もっとも当時、手間賃は注文主と仕事を請負う職人との話し合いで決められるのが普通だった。しかし、あまりにも手間賃の相場が高くなったので、幕府も見ていられなくなったのだろう。上限を定めた(まち)(ぶれ)を出し、抑制しようとしたのである。


 とくに江戸の町は火事が多かったため、消火活動をし、火事の後始末をする鳶、跡地に家を建てる大工、壁塗りの左官などは引っぱりだこだった。それだけに「稼ぎがいい」ということで、女性にももてたようだ。


◆豊かだった大工の暮らし?


 職人の暮らしぶりを具体的に見てみよう。


 栗原柳庵の『文政年間漫録』は、その題名通り、文政年間(一八一八~二九)の江戸庶民の暮らしぶりを記録したものだが、そのなかに、ある大工の例を紹介している。


 先にも少し触れたが、当時の大工は収入がよく、一種のエリートとみられていた。ここに出てくる大工は、妻と子一人の三人家族で、長屋暮らし。四畳半が二間だから、俗にいわれる「九尺二間の裏長屋」より広い。


 この「九尺二間」は、一軒の広さは間口が九尺(約二・七メートル)、奥行は二間(約三・六メートル)、つまり三坪(約九・九平方メートル)、六畳一間だ。


 稼ぎは、一日の手間賃が銀四匁二分で、それに飯米料(弁当代)一匁二分が加算される。当時は旧暦で一年三百五十四日だが、そのうち正月や節句、風雨などで年に六十日は休む。働いたのは二百九十四日で、一年の総収入は銀で一貫五百八十七匁六分だった。


 銀六十匁で金一両だから、金に換算すると約二十六両二分(四分で一両)、一か月平均の稼ぎは二両一分ほど。一両十万円として単純換算すれば、年収二百六十五万円、月に二十二万円程度ということになる。


 一年分の支出はどうか。まず、店賃(家賃)が百二十匁(約二十万円)、飯米は三人分で三(ごく)()(しよう)、この代金は三百五十四匁(約六十万円)だった。


 そのほか、塩や味噌、〓油、油、薪炭の代金が七百匁(約百十五万円)。道具や家具の代金が百二十匁(約二十万円)で、衣服代も百二十匁(約二十万円)かかった。さらに、親族や古い知人への音信、祭礼、仏事の()()などが百匁(約十七万五千円)である。


 合計すると、一年間で一貫五十四匁(約二百五十二万五千円)を使った。一か月平均約二十一万円だが、手元に残ったのは、わずか七十三匁六分(約十二万五千円)でしかない。


 もっとも、その日暮らしが普通という時代に、それだけ残ったのはいいほうだ。でも、万が一、なにか面倒なことが起きて出費がかさむと、借金せざるをえなくなるというのが普通だった。


◆働けば稼げる


 江戸っ子といっても、多くは地方から出稼ぎにやってきて、そのまま江戸に住み着いた人びとである。職人といっても幕府御抱えとして、江戸城内の立派な造作とか、美術工芸品のような道具類をつくる職人は、きわめて少ない。それ以外の職人たちは、たいした稼ぎもないのに「宵越しの銭は持たねえ」と粋がった。


 しかし、実際には、職人のほとんどがその日暮らしで、「宵越しの銭」を持つほど余裕はない。それでも、先に触れたように江戸では火事が多発したから、焼け跡の片づけ仕事とか、大工仕事の手伝いなどが多く、その日暮らしでも困ることはなかった。


 だから道具があって、仕事さえすれば、日銭が入るので食べていける。江戸の職人には「銭は明日、また働けば稼げる」という気楽さがあった。「宵越しの銭は持たねえ」ということばも、そうした気楽な暮らしの中から出てきたのではないだろうか。


 それに「べらんめえ」とか、「てやんでえ」といった江戸弁も神田地域の職人たちから生まれたことば。そうした江戸の職人たちは、どのような仕事に取り組んでいたのか。つぎに具体的な職種と職人の仕事ぶりを紹介してみよう。

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