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お江戸の職人(エリート) 素朴な大疑問 今に伝わる「技」から「粋」で「いなせ」な暮らしぶりまで
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雑学
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第8章 遊び道具をつくる

『お江戸の職人(エリート) 素朴な大疑問 今に伝わる「技」から「粋」で「いなせ」な暮らしぶりまで』
[著]中江克己 [発行]PHP研究所


読了目安時間:25分
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雛人形師 〓 人形専門の着付師までいた



 雛祭りには雛人形を飾るほか、白酒や(ひし)(もち)を供え、女の子の無事な成長を祈った。この行事は、公家たちが行なった「雛遊び」にはじまるが、江戸中期には「雛祭り」と呼ばれ、江戸庶民の家庭でも盛んになった。


 雛人形は、胴体、頭、衣裳など多くの職人たちが分業してつくる。(かなめ)となる頭は、頭師が専門につくるが、工程は二十ほどもある。手間がかかるが、労を惜しんではいいものができない。


 頭は桐のおが屑に(しよう)()(小麦粉の(でん)(ぷん)でつくった(のり))を混ぜてつくった(とう)()でつくる。()(ふん)(貝殻を焼いて粉末にしたもの)を塗り重ね、真っ白にする。つぎに目と口を彫り込み、鼻をととのえる。さらに何種類もの筆を使いわけて眉や目、唇などのほか、生え際の髪も描く。

「たらちねの(つま)までありや雛の鼻」


 蕪村の句で、雛人形の顔を詠んでいる。世の母親は、高くなるようにと娘の鼻をつまむ。この雛の鼻が低いのは、母親がつまんでやらなかったからだろう。なにやらやさしい気持ちにさせられる句だ。


 人形の頭、つまり髪形は別につくる。黒く染めた絹糸を使い、人形のちがいに応じて髪を整え、頭につける。胴体に着物を着せたあと、頭をつけて完成に近づく。


 端正な顔の雛人形を作る頭師をからかった川柳もある。

「己が子は(さて)不細工な人形屋」


 頭師のほか、手や足をつくる職人、衣裳をつくる職人、扇や冠など飾りをつくる専門家がいた。


 雛人形の場合、頭と同様に気を使うのが衣裳である。江戸の人形は、着物をきちんと縫い、人形に着せるのが特徴だという。女雛はむろん十二(ひとえ)。それだけに手間がかかるが、さらに人形にそれを着せるのも気を使う。


 人形の姿が生き生きとするのがポイントだから、男雛は男らしく、女雛は女らしく仕上げていく。


 江戸時代には、さまざまなものをまとめ、一体の人形に仕上げる着付師がいたらしい。


 (わら)を巻きつけてつくった胴に首を挿し、女雛の場合は柔らかい体の線が出るように綿を含ませながら衣裳や手をつけ、アクセサリーを取りつけていくのだ。


 江戸の女性たちは『源氏物語』などの王朝文学を貸本で読み、貴族たちの華やかな文化に憧れていたが、雛人形師たちは、その夢の再現のお手伝いをしていた。


 ところで、江戸初期は「立雛」といって、男雛と女雛とが並んで立つ、というものだった。衣裳は、まだ紙製のものを着せていた。


 寛永年間(一六二四~四三)には、すわった形の(だい)()雛が出現した。これは天皇と皇后の姿を模したもので、男雛は()(かん)(そく)(たい)、女雛には十二単を着せたのである。さらに元禄年間(一六八八~一七〇三)以降は、三人官女、左大臣と右大臣、五人囃子(ばやし)の人形を階段状の雛壇に飾るようになった。


 庶民生活が豊かになるにつれ、雛人形も華麗なものがつくられたが、そのたびに幕府は奢侈禁止令を出している。享保六年(一七二一)には、八寸(約二十四センチ)以上の雛人形をつくってはならない、との禁令が出たが、違反者は過料が科せられた。雛人形そのものは、当初、江戸でも京風の人形がつくられた。しかし、寛政年間(一七八九~一八〇〇)には、江戸十軒店(中央区日本橋本町)の人形師原舟月が優雅で写実的な「()(きん)(びな)」をつくった。これが江戸庶民に親しまれ、いまもこの系統の人形がつくられている。


 ひと口に江戸時代といっても、職人たちはそのときどきの好みを取り入れながら魅力的な人形をつくってきた。


土人形師 〓 人気の「今戸人形」



 衣裳を着せる人形の典型が雛人形なら、土人形は衣裳もいらない素朴な人形である。歴史は古い。


 京都伏見の深草には良質の土があるため、五世紀ごろから()()()が移住し、素焼の土器をつくったという。


 信長が安土城を築城したとき、瓦職人がこの地で瓦を焼き、土器の生産が盛んになった。元和年間(一六一五~二三)ごろ、伏見人形もつくられたが、これが土人形のルーツとされる。


 伏見人形は粘土を型抜きしたり、手で成形した人形を素焼にし、それに青や朱で彩色したものだ。江戸後期、この伏見人形が諸国に伝わり、それぞれ独特な土人形がつくられるようになった。


 農学者の(おお)(くら)(なが)(つね)が弘化年間(一八四四~四七)に出した農学書『(こう)(えき)(こく)(さん)(こう)』のなかで、伏見人形の作り方を紹介。

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