『消えるコトバ・消えないコトバ』
[著]外山滋比古
[発行]PHP研究所
一人前になりかけると、人は日記をつけ始める。ついで、手紙を書くようになる。
日本はおそらく世界でもっとも古くから日記の栄えた国であろう。千年前から、日記という作品がいくつも残っている。外国の人が知ったらおどろくに違いない。ヨーロッパの人が日記に注目するのはずっと後のことになる。
日記は第一人称の立場で書かれる。いちいち、主語を出すに及ばない。“六時半起床”と書く。私は今朝、六時半に起きた、などとするのは異常である。ことごとに主語が必要な英語でも、日記の文章では第一人称を落とすことになっている。いくらか日本語に近い。
主語を落としている日記で、第一人称が必要になると、ことばに迷う。作家の全集などにある日記を見ると、めいめいが苦心しているがおもしろい。私、というのはすくなく、自分とか名前、などいくらか照れ気味の自称が見られる。
そういう日記のことばで、手紙を書くことは難しい。手紙の文体、用語がおのずから定まる。第一人称がうまく出せないから、やはり、主語を省いて、きまり文句、「時下、益々ご清祥の段、大慶に存じ上げます」などといった、心なき文字をならべることになる。主語をぼかし、筆者のあらわになることのすくない候文が一般的になって、手紙は書きやすくなった。
戦後、候文がすたれて、手紙は厄介な表現の正性をあらわした。手紙のうまく書ける人がすくなくなった。やたらに、第一人称があらわれて、はなはだ目ざわりである。
そういう手紙であるが、日記でははっきりさせることのできない、第三人称の視点をもつ点で貴重である。
日記は没人称、主観的表現で書かれるが、手紙は、多少とも、客観的なアウトサイダーの視点が必要である。日記より手紙が書きにくいのは当然である。
書簡の文体が、十全にアウトサイダー言語を代表しているとは言えない。なお、主観がつよいのである。
そういう主観をふり切るには、物語の出現が必要である。
むかし、むかし、ある所に……
という表現には、第一人称、主観の要素は最小になって、古典スタイルに達しているのである。アウトサイダー言語の出現である。
そして、当事者主観的文体よりも、超個性的アウトサイダー表現の方が、消滅しにくく歴史的になることができる。そう考えたのである。
さらに、アウトサイダー言語に心を寄せていると、文章においても、超俗的になりうるのではないか。そう考えて、アウトサイダー文化に心を寄せたのである。
こういうことを、ひとつひとつ書いて、アウトサイダー言語と文化のエッセイ集ができた。
それはいいが、いかにも乱脈、まとまりに欠けている。自分でまとめることはできそうにない。そう思って、PHP研究所学芸出版部の大久保龍也氏に編集をお願いした。
たいへんな苦労をかけたが、『消えるコトバ・消えないコトバ』ができた。みごとな編集加工であるが、もともと著者の考えていた論点がいくらか、あいまいになったかもしれない。しかし、それはむしろ当然のことである。新しいところに光が当たるようになった。
いずれにしても、アウトサイダー言語論、アウトサイダー文化論は新しい思考であるように考えている。
政治、経済においても、アウトサイダーの力が認められようとしている現代、その原型を考究するのは、きわめて刺激的である。
二〇一六年六月
外山滋比古