『小村寿太郎とその時代』
[著]岡崎久彦
[発行]PHP研究所
──小村は時代が要請する「狂者」であり「獧者」であった
「狂者」と「獧者」
いったん翻訳局から登用されて外交の最前線に立たされてからの小村は、まさに魚が水を得たごとく、たちまち頭角を現わして日本外交の中心的人物となる。
一八九三年(明治二十六)駐清代理公使、一八九四年日清戦争勃発後は満洲の占領地域の民政長官、同年外務省政務局長、九五年駐朝鮮公使、九六年外務次官、九八年駐米公使、一九〇〇年駐露公使、同年駐清公使、一九〇一年外務大臣となり、一九〇六年まで外務大臣として日露戦争の全局に当ることとなる。
それまで十年間の鳴かず飛ばずの時代を思うと、まるで別人の感がある。
畢竟は小村の実力と度胸が同僚のなかで卓越していたからである。実力はもともとあった。翻訳局時代も、小村の書く英語の流麗さは他の追随を許さないといわれた。大胆不敵さも、周囲が辟易するほどのものがあった。しかし、その二つの点を誰も結びつけて考えようとはしなかった。むしろ処世に拙く、バランスを欠く人物と思われていたのであろう。
「バランスのとれた人物」という表現は、戦前の日本にはなかった。それよりも度胸とか腹とかいうことのほうが重視された。しかし、戦後の日本では「バランスのとれた」はすでに日本語として定着し、社会人の評価としては最高のほめ言葉の一つとなっている。
宋の人、蘇東坡はいっている。
「天下がまだ泰平でないときは、人々は相争って自らの能力を発揮しようとする。しかし天下が治まると、剛健で功名を求める人を遠ざけ、柔懦、謹畏の人(かしこまってばかりいる人)を用いるようになる。そうして数十年も過ぎないうちに、能力のある者は能力を発揮する場もなく、能力のない者はますます何もしなくなる。
さて、そうなったときに皇帝が何かしようとして前後左右を見渡しても、使える人間が誰もいない。……上の人はつとめて寛深不測の量をなし(度量が大きく、しかも中身が計り知れない大人物の恰好ばかりして)、下の人は口を開けば中庸の道(バランスがとれている、というのが適訳であろう)ばかりいい、……もってその無能を解説するのみなり」
そして蘇東坡は、「中庸」のもとの意味はこれとはまったく異なることを論証している。そして、右のような人々を孔孟は「徳の賊」と呼び、むしろ「狂者」(志の大にして言行の足らない人)を得ようとし、それが得られない場合は、「獧者」(たとえ知は足りなくとも何か守るところのある人)を得ようとしたという。狂者は皆のしないことをやる人であり、獧者は皆がするからといってもこれだけは自分はしないというものをもっている人、つまり土佐の「いごっそう」である。蘇東坡はいま天下をその怠惰から奮いたたせるには、狂者、獧者であってしかも賢い人間を使うに如くはない、というのである。
明治の人はよく自らを「狂」と呼んだ。山県有朋は「狂介」と名乗り、陸奥宗光は雅号を「六石狂夫」とした。まさに身に過ぎた志をもつ狂者と自らを呼んでいるのである。
小村は、まさに狂者であり獧者であった。とても「バランスのとれた人物」という範疇には入りようがない人物であった。