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小村寿太郎とその時代
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歴史
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第三章 瓦解する清帝国

『小村寿太郎とその時代』
[著]岡崎久彦 [発行]PHP研究所


読了目安時間:37分
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──アジア最後の帝国は(おう)(べい)(れつ)(きよう)になすすべなく(くつ)した


アジア的大帝国の(すい)退(たい)


 日本が二百二十年間()(こく)しているあいだに、アジア大陸の国際情勢は大きく変動していた。日本が鎖国をした十七世紀前半ごろにはアジアではまだ巨大な諸(てい)(こく)が栄えていた。


 オットマン帝国は、東は黒海の沿岸、南はペルシア(わん)、紅海まで、西は全北アフリカ、北はバルカンを押え、しばしばウィーンを(おび)やかしヨーロッパのバランス・オブ・パワーの一角をなす強大国であった。


 インド()大陸では、ムガール帝国がアクバル大帝(在位一五五六~一六〇五年)以降、「デリーを支配する者は宇宙の主である」といわれたとおり(りよう)(いき)(かく)(だい)と経済の(りゆう)(せい)を続け、その(ほう)()な物産の輸出で流入する金銀によって世界一豊かな国といわれていた。


 そして清帝国は、モンゴルの世界(せい)(ふく)時を除いて史上最大の(はん)()を占め、(こう)()(けん)(りゆう)帝の下に十八世紀まで世界最大の帝国と最高の文明の()(よう)(ほこ)っていた。


 西(せい)(おう)諸国の進出によって最初に(くず)れたのはムガール帝国であった。インドの富を求めて最初はポルトガル、ついでオランダ、英、仏がインドに通商の基地を求め、十八世紀には次第に英国が優位を占めてインドの要地を次々に支配下に収め、一八〇五年にはムガール皇帝自身が英国の保護下に入って帝国は(ほろ)んだ。



 十八世紀の百年間がムガール帝国(めつ)(ぼう)の歴史であるとすれば、十九世紀はオットマン帝国解体の歴史である。ナポレオン戦争から第一次大戦の終了に至る百年のあいだに、ロシアによる(さん)(しよく)、バルカン諸国の独立、西欧による北アフリカの植民地化、そして最後にはアラブ諸国の(ぶん)()によって、トルコはその(ぞく)(りよう)のすべてを失ってしまうことになる。



 そうしたなかで、十九世紀も終りになって最後に残っていたのが清帝国だった。


 ロシアのコサックはすでに十六世紀末にウラルを越えて東に進み、シベリアの各地に(きよ)(てん)を設けて(りやく)(だつ)的な行動をしていた。これに対して、康熙帝は断固たる態度で(のぞ)んだ。ロシア側はいろいろと(げん)()(ろう)して()(せい)事実を(まも)ろうとしたが、近代的な(たい)(ほう)(そう)()をもった清国の大軍を前に(あつ)(とう)されて、ネルチンスク条約(一六八九年)を結んで(こく)(りゆう)(こう)()(いき)から(てつ)退(たい)した。そして、その後七十年間は(ほこ)(さき)を転じて、(きよく)(とう)への交通路の南側にあたる中央アジア(けい)(りやく)に従事していたが、()(へん)戦争で清国が北方に事をかまえる()(よう)がなくなったのに乗じて再び極東に進出して、黒竜江北岸およびウスリー江東岸を手に入れて(一八五八~一八六〇年)ウラジオストックに至っていた。


 しかし、康熙帝の大軍の前にロシアが敗退した()(おく)はその後もヨーロッパ諸国のなかに残っていて、中国は眠れる()()として恐れられていた。


もはや「眠れる()()」ではない


 日清戦争は、東アジアの近代史における最大の転機だった。日清戦争は、それまで列強が清国から(かす)め取ってきた辺境でなく、清国の中心部で行われた。しかも小国日本の前に清国があれほど(もろ)くも敗退したのを見て、西欧(れつ)(きよう)は当初は(あつ)()にとられていたが、はっと気づけば清国はもはや「眠れる獅子」ではなく、かつてのムガール帝国、オットマン帝国と同じように、いかようにでも料理できる生ける(かばね)だと気がついた。その後の列強の行動は、帝国主義時代でも最も()(こつ)なものであり、それについてすべての史書が使っている表現どおり、まさに()(かばね)(むら)がる禿(はげ)(たか)であった。


 まずは、日本に(ばい)(しよう)(きん)を払わなければならない清国の財政難につけ込んでの(しやつ)(かん)(きよう)()競争から始まった。


 借款供与というと、現在の発展途上国(えん)(じよ)の感覚では借りる側の国の利益のように思えるが、当時は列強による勢力()(しよく)の手段であった。いったん借金をさせればもう、しめたものである。貸した国は借りた国の(ぜい)(かん)の収入を押え、(しゆ)(じゆ)()(けん)(かく)(とく)し、また、借りた国の財政を支配するためにアドバイザーを送り込んだりする(こう)(じつ)とした。アジアで(かろ)うじて独立を保っていたペルシアなどは借金()けにされ、鉱山、鉄道等の各種利権は外国の手に渡り、その国土はイギリスとロシアの勢力(けん)に分割された。


 現に、(さん)(ごく)(かん)(しよう)をしたロシアとフランスは、賠償金支払いを助ける名目で四億フランを清国に貸しつけることになったが、それを聞いた英国は、もともと英国に借金を頼んでいる最中に露仏から借金を受けたことの不信を責め、ドイツもこれに()(たん)して、清国は英独からも三千二百万ポンドの借金をすることとなった。一つの国から金を借りるということは、その国の勢力(はん)()となるというのに近いことを意味したのである。ちなみに、ソ(れん)(ぽう)から独立した中央アジアの国に対して、日本が低利長期の円借款をオファーしたところ、その国の政府は日本が次にいかなる要求を持ち出してくるかと、おびえたというエピソードもある。



 当時ロシアの最大の関心事は、建設中だったシベリア鉄道を現在の路線のような黒竜江の北岸沿()いでなく、満洲を横断してハルビンを通ってウラジオストックに真っすぐつなげることだった。そのほうが(きよ)()が短くてすむことはもちろんであるが、不毛なシベリアでなく物産の豊富な満洲を通ることになり、また中国の心臓部への(せつ)(きん)()としても有利だったからである。


 一八九六年(明治二十九)、ニコライ二世の(たい)(かん)(しき)に清国からは()(こう)(しよう)が出席した。当時は三国干渉のお蔭で(りよう)(とう)半島が清国に(へん)(かん)されたばかりであり、(おう)(うん)(せい)の表現によれば清国内では「ロシアの大きな野心を知らず」、(きゆう)(てい)内こぞって「(れん)()(きよ)(にち)(ロシアと連合して日本と(たい)(こう)する)()(せん)を支持していた。

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