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小村寿太郎とその時代
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歴史
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第四章 議会民主主義への執念

『小村寿太郎とその時代』
[著]岡崎久彦 [発行]PHP研究所


読了目安時間:33分
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──自由民権運動の(ともしび)を絶やさなかった男・(ほし)(とおる)(しよう)(がい)


(はん)(ばつ)と政党の(てい)(けい)時代


 小村寿太郎が(かく)(りよう)になったころは、日本の議会政治も議会開設以来ほぼ十年を過ぎて、まだ完成には(ほど)(とお)いとはいえ、少しずつ定着してきていた。


 日清戦争の前までは、()(とう)(ひろ)(ぶみ)()()(むね)(みつ)(せき)(ねん)の政府の(だん)(あつ)に対するリゼントメント(おん)(ねん)のある野党と、議会政治にまったく理解のない(げん)(めい)()(ろう)(はん)(ばつ)の保守派とのあいだの板ばさみとなって、日本にはまだ(けん)(せい)は無理ではないかと思わせるような()()に何度か直面した。しかし、(かい)(さん)(けん)(こう)使()と、陸奥と自由党の土佐派との(しん)(らい)関係による野党との()(きよう)という(こう)(なん)(りよう)(よう)の方法で、なんとか憲法停止に至らずに初期の議会運営を乗り切って来た。


 一八九四年に戦争が始まると、議会は愛国心の(はつ)()により(きよ)(こく)(いつ)()(せい)()を支持し、日本憲政の第一期はとにかく生き()びることができた。しかし平和がくると、再び政府は、民党が過半数を占めている議会をいかに運用するかの問題に直面せざるをえなくなった。



 まず(りよう)(とう)半島(へん)(かん)問題が野党による政府(こう)(げき)の格好の材料となった。


 しかし陸奥が()いた伊藤と自由党との(てい)(けい)路線は、その後も日本の政治を動かす一つの(じく)となっていて、何度も日本の議会政治を救うこととなる。とくに東半島返還問題については、()(しん)(しよう)(たん)のために政府と協力するということは当時の国民の心情の大きな流れにも沿()うものであった。一八九六年には自由党は伊藤内閣に協力し、(いた)(がき)退(たい)(すけ)(とう)(せき)(はな)れて内務大臣として入閣した。


 これによって、民党の一部が政府と(てい)(けい)して事実上の()(とう)となるという前例ができたわけである。それはただちに(こう)(けい)(まつ)(かた)(ない)(かく)(とう)(しゆう)され、今度は進歩党が(まつ)(かた)(まさ)(よし)と提携し(おお)(くま)(しげ)(のぶ)(ふく)(そう)()(かく)で外務大臣となった。これが、政府と野党の提携時代と呼ばれる時期である。その後、松方内閣は進歩党との提携が()(たん)し、自由党とも話し合いがつかず、()(しん)(にん)(けつ)()(あん)を提出されて(そう)()(しよく)する。もはや民党のいずれかの一部の協力がなければ政権を()()できない時代に入っていたのである。


 次の伊藤内閣も自由党の支持を期待して(ほつ)(そく)したが、結局は提携が(くず)()(かい)した。



 そこまでくると、もう次の新しい展開が必然となってくる。民党の側では、いつまでも民党が(ぶん)(れつ)したままで、それぞれ藩閥政府のパートナーとなるよりも、むしろ自由党と進歩党が合党して憲政党をつくり、衆議院の絶対多数を(にぎ)って「憲政を(かん)()させる」ほうがよいと考えるに至った。


 ここでついに藩閥政府は、かつて陸奥が予言したように、国会の多数が政権を取るという議会民主主義の当然の()(けつ)(じゆ)(だく)せざるをえなくなった。


 伊藤は、当初は新たに(しん)政府政党をつくることを考えた。伊藤は、初期議会のころにもそれを考えたことがあった。伊藤としては、自分が動きだせば政党ぐらいつくれるだろうという()()てぬ夢があった。しかし、それもこの時点までであり、伊藤自身も、ついにそれが非現実的であることを(さと)らざるをえなかった。自由民権運動以来の民党の()(ばん)(ろう)()たるものがあり、伊藤をもってしてもそれに対抗する政党などつくれるわけもなかった。そこで政権を大隈、板垣に(ゆず)ることとなった。


 しかし守旧派はけっしてこれを(なつ)(とく)したわけではなかった。(やま)(がた)(あり)(とも)はとくに(きよう)(こう)で、「政党内閣はわが(こく)(たい)に反し、民主政治に()するものである」と反対し、伊藤と真っ向から対立した。


第二の平和革命


 そして(わい)(はん)内閣の出現に際して、山県はついに「明治政府は(らく)(じよう)した」と(たん)じている。


 ここで大隈、板垣に政権を譲った伊藤の(じゆう)(なん)さが憲政を救っている。山県の意見にしたがっていれば、政府は解散権を()り返し(こう)使()する以外には何の対策もなかったであろう。そうすれば予算は通らず政府の()(のう)()()して、(せま)りくるロシアの(きよう)()を前にして、結局は(けん)(ぽう)を停止して藩閥(どく)(さい)体制に(もど)って対露戦備をする以外の(せん)(たく)()はなかったであろう。



 隈板内閣ははじめての政党内閣でもあり、大した業績も上げないうちに自ら党内の(ぶん)(れつ)で瓦解する。しかし、もともと(ちよう)(ぜん)主義を(ひよう)(ぼう)して発足した日本の憲政が、十年たたないうちに平和()に政党内閣をつくったことそれ自体に()()があった。それは明治憲法が手本にしたドイツの憲政ではついになかったことである。日本人は再び平和革命に成功したのである。

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