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小村寿太郎とその時代
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歴史
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第五章 ロシアの東方進出

『小村寿太郎とその時代』
[著]岡崎久彦 [発行]PHP研究所


読了目安時間:31分
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──暴力と(かい)(じゆう)によって()(せい)事実を重ねるロシアの手法


国境線は一メートルでも遠いほうがよい


 一八五三年ペリーが日本に来航したのと同じ年に、ロシアのプチャーチンは長崎に来航している。そしてロシアがいったんネルチンスク条約(一六八九年)(てつ)退(たい)した(こく)(りゆう)(こう)沿(えん)(がん)地方を(へい)(ごう)したのは一八五八年と一八六〇年であった。


 こうしたロシアの動きは、歴史を長期的に見れば、いわゆる大航海時代()(こう)西(せい)(りよく)(とう)(ぜん)が十九世紀半ばにいたってついにユーラシア大陸の(とう)(たん)にまで達した動きの一部といえる。そして、ユーラシア大陸を東に進んだロシアと、新大陸を西に進み太平洋岸に達したアメリカとが、同じ時期にアジアの東の果ての日本に(とう)(たつ)したといえよう。



 しかし、ロシアの東方進出には西(せい)(おう)諸国と異なる歴史的背景がある。そもそもその(ほつ)(たん)はタタールの(くびき)からの解放であり、ロシアが、カザン(かん)(こく)(せい)(ふく)してやっとヴォルガ()(はん)に達したのは一五五二年であり、それはすでにマジェランがフィリピンに到達(一五二一年)した三十年後、(たね)()(しま)(てつ)(ぽう)が伝来(一五四三年)した十年後である。出発はロシアのほうがはるかに(おく)れているのである。


 その後の半世紀タタールと戦いながら東進し、西シベリアを征服してイェニセイ河に(とう)(たつ)したのが、十七世紀初頭の一六一八年であった。しかしタタールの(てい)(こう)がなくなってからは、シベリアの森林が産する高価な毛皮を追って、無人の境を行くがごとく急速に東進した。ロシアの(たん)(けん)(たい)はヤクーツクには一六三二年、アメリカ大陸と向い合うシベリア東北端のアナドイルには一六四九年に到達している。日本が()(こく)(一六三九年)をした前後の時期にシベリアでは、すでにこれだけの地政学的変化が起っていたのである。



 ロシアの(かく)(ちよう)は、当初は生存を()けた()(えい)的なものだった。自然の(しよう)(がい)(ぶつ)のない広大な草原のなかに住んでいて、いつタタールの(ごう)(りやく)を受けるかもしれない(じよう)(きよう)では、国境線は一メートルでも遠いほうがよい。そうして拡大した部分の防衛のためには、国境線はさらに遠いほうがよい。そのように自衛のために領土を無制限に拡大しようという力が働くのである。

一度ロシアの国旗が(かか)げられた土地においては、けっしてそれが降ろされてはならない」というのはニコライ一世の言葉である。一八五八年に黒竜江北岸がロシア領となる七年前、黒竜江を()(こう)したロシア軍人ネヴェルスコイが上陸してロシア国旗を掲げ、その土地を(こう)(てい)の名にあやかってニコライエフスクと名付けた。これはネルチンスク条約()(はん)であり、当時欧州正面が(きん)(ぱく)していたロシア政府としては、清国とのあいだの(ふん)(じよう)()けるためにネヴェルスコイを軍法会議にかけた。その際、皇帝が(かい)(にゆう)して(とく)(しや)したときの言葉であり、ヨーロッパではかなりの(はん)(きよう)があった有名な言葉である。


 もちろん当時の世界的な帝国主義的風潮を反映した言葉であるが、その裏には、領土を一メートルでも拡張しておくというロシアの伝統も存在する。


ロシアの言葉の(うら)(おもて)


 この章で、ロシアの政策を解明するに際しての困難は、ロシアのその時々の公式の発言とその行動とが(かい)()することである。ロシア政府の発言を(がく)(めん)どおり引用していくとロシアは終始周辺を(しん)(りやく)する意図などはもっていなかったようにもいえるが、多くの場合、結果としては領土を拡大している。また、政府部内にも(おん)(けん)派と(きよう)(こう)派の意見があり、事態の進展や(ぐう)(ぜん)(めぐ)り合せでやむをえず強硬派の意見が通ったという説明が可能な場合も多々ある。しかし、大きな流れとして見ると、結局は平和的に拡張できればそれはそれでよいとして、力を使えば得な場合は必ず力を使ってどんどん進出してきたのが否定しようのない事実である。


 (にち)()戦争について最もたびたび引用されるウイッテの『回想録』についても、必ずしも額面どおりであるとはかぎらない。この回想録の最も大きな目的は、日露戦争の敗戦のあとで「自分は終始警告を発したのに、誰がこんな戦争を()き起したのだ」という責任の(つい)(きゆう)であって、そのなかで、ウイッテはつねに(ぜん)(だま)であるからである。


 また、もしウイッテの証言が全部正しかったとしても、ウイッテの(けん)(げん)がはじめから用いられていたとすると、ロシアは()(こう)(しよう)(ろう)(らく)して平和的に北満洲を支配下において、満洲を横断してウラジオストックに至る鉄道を確保し、いずれは(りよう)(とう)半島でなく(ちよう)(せん)半島に進出していったことになる。その結果、やはり朝鮮半島南部の()(けん)をめぐって、あるいは対馬(つしま)(かい)(きよう)をめぐって日露の(しよう)(とつ)となったことは十分予見され、その場合はロシアが十分な準備をして南下してくるぶんだけ、状祝は日本にとってより(しん)(こく)であったろう。

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