『小村寿太郎とその時代』
[著]岡崎久彦
[発行]PHP研究所
──小村の意見書が英か露かの選択に決着をつける
世界地図の空白地帯
日本と英国との関係は三百年前に遡る。
日本に渡来した最初のイギリス人は、一六〇〇年に九州に漂着したオランダ船リーフデ号の航海士ウィリアム・アダムズであった。
アダムズはエリザベス女王の時代の英艦隊に勤務し、無敵艦隊撃滅の際の英国艦隊の艦長の一人として武勲をたてている経験豊かな船乗りであった。家康はアダムズを寵愛し、領地、領民を与えて領主として遇した。
アダムズが日本で優遇されているという噂を聞いたイギリスは、ジェームズ一世の使節を日本に送り、平戸に東インド会社の商館を開いた(一六一三年)。
やがてイギリス商館は、商売上の失敗もあってオランダとの競争に勝てず、一六二四年に閉鎖した。しかし商館、倉庫、埠頭は平戸藩に保有を依頼し、再開の場合は同じ条件で通商が許されるように請願して去った。
その意味でスペイン、ポルトガルの両カソリック国のように、カソリック布教を手段とする拡張主義を疑われて日本との通商を禁止されたわけではなかった。
しかし一六七三年に通商の再開を希望したときは、オランダは英国と交戦の最中であり、英国の船はオランダ海軍の目をくぐってやっと長崎に入港したが、オランダは裏で妨害した。とくに時のチャールズ二世がカソリック国ポルトガルから妃を迎えたことを幕府に報らせたため、幕府はそれを理由として通商を許可しなかった。
いずれにしても、英国は清国という当時は日本とは較べものにならない大市場のほうにより大きい関心をもっていたので、十九世紀に至るまで対日貿易は閑却されていた。
他方、英国の大探検家キャプテン・クックは、一七六八年から一七七〇年のあいだにオーストラリア、ニュージーランド等、全太平洋地域を探検し、最後に北太平洋探査の命令を受けていたが、その準備中ハワイで島民に殺され、その後任クラークもやがて病没し、北西太平洋は手つかずのままになっていた。そうした理由で日本列島の北は、当時の世界地図の最後の空白地帯として残っていた。
キャプテン・クックの活動を競争意識で注視していたルイ十六世は、代って、一七八三年ラペルーズ大佐に命じて日本海を探査させた。宗谷海峡が一名ラペルーズ海峡と呼ばれるのはこの探検の結果である。しかし樺太が島か半島かの決定は、間宮林蔵の踏査(一八〇八~九年)を待たねばならなかった。
世界を二分する超大国
日本開国前後における極東の力のバランスは、北から来るロシアと南から来るイギリスに二極化していた。
幕末の先覚者であり思想家、政治家、画家であった渡辺崋山(一七九三~一八四一年)は、早くから蘭学を修めて世界の現状と日本の将来を憂えていたが、その著書のなかで、いつまでも鎖国しているとロシアとイギリスが実力を行使し、両国ともその機会に日本の領土を狙うおそれがあると指摘している。そして「英国は智謀ありて、海戦に長じ、ロシアは仁政にして陸戦に長ず」といっている。
また井伊大老の弾圧で若くして刑死した幕末の天才的思想家橋本左内(一八三四~五九年)は、「英露は両雄並び立たず」と判断し、「世界の牛耳をとるのはまず英国かロシアのどちらかであろうが、英国は剽悍貪欲、ロシアは沈鷙厳整(落ち着いていて強力で厳しい)、いずれはロシアに人望が集まるだろう」と、ロシアと協力することを主張している。
いずれも、漢文の対句の文章スタイルのなかに思想を押し込んでいるので、思想の整理上は若干の無理はあるが、どちらもオランダからの情報をもとにしている判断であろうし、それが当時の世界の通年だったのであろう。
英露が世界を二分する超大国になるのは、ナポレオン戦争の二大戦勝国になってからである。ちょうどドイツと日本を滅ぼして、米ソの二超大国時代がきたのと同じである。英国海軍がフランス、スペイン連合艦隊を撃滅したトラファルガー海戦におけるネルソン提督の剽悍さと、無敵を誇るナポレオン軍を迎え討って決定的な勝ちを許さなかったボロジノの会戦におけるロシアのクトゥーゾフ将軍の重厚さを較べ、そして、戦争の結果フランス・オランダの植民地を奪取した英国と、ウィーン会議を牛耳って神聖同盟を提唱し、ヨーロッパの諸王家の正統性復活に意を用いたロシアとを較べれば、とくにオランダのような大陸国から見れば当然の判断だったかもしれない。
そもそも幕末の志士たちが日本の将来に危機感を抱くのは、阿片戦争が最大の契機である。いつ洋夷(イギリス)が手を伸ばしてくるのか、そのときに日本はいまのままの体制で大丈夫なのだろうか、ということである。