『小村寿太郎とその時代』
[著]岡崎久彦
[発行]PHP研究所
──その背景には日本の弱点を補う「日英同盟」があった
満洲撤兵の意志なし
念願の日英同盟ができると、桂内閣は小村寿太郎の主導の下に、正面からロシアに対して満洲撤兵を強く迫った。また清国に対しても、ますます満洲征服の意図が露骨になってくるロシアの要求に抵抗して頑張るようにいうのも忘れなかった。
大臣就任早々の一九〇一年十月五日、小村は清国に対して、「さきに、新しい露清条約をつくるのをロシアに断念させたときは、清国は日本の実力による支援に感謝し、もし今後ロシアがまた何かいってきたならば、すぐに日本に報らせて協議すると宣言した。これはきわめて重要なことだから、今後もそうしてほしい」と申し入れている。
そのころはロシアではまだ、ウイッテが極東政策の中心であり、武力によらず、清国を籠絡しつつ満洲における勢力を拡大し、固めていく路線をすすめていた。そして満洲からの撤兵の条件として、満洲における権益をロシアが独占する種々の提案を清国に対して出していた。
清国は、そのつど日本に内容を通報し、小村はそのたびに清国側に助言して、ロシアの圧力に抵抗させた。
ロシアは、ついに満洲の経済を露清銀行の支配下に置くような提案を行なったが、清国は日本の助言に基づいて、ロシア側の執拗な要求を拒否しとおした。
その提案が最終的に拒否された翌日、ロシアは日英同盟締結の通報を受けた。これは、ロシアにとっては不意打ちであり、二重の驚きであった。それほど条約交渉の秘密はよく保たれた。
同盟締結の功をもって閣僚全員が栄爵を賜わったとき、やりすぎではないかとの批判に対して、小村は、「秘密を守っただけでもその価値がある」と笑っていったという。ロマノフの『満洲におけるロシアの利権外交史』によれば、この二つの事件で満洲を独占しようというロシアの企図は挫折してしまったのである。
そこでロシアは、特別の代償なしに満洲撤兵を約束するほかはなくなった。
それでも撤兵の条件として、「もし何ら変乱が起ることなく、また他国の行動によって妨げられないかぎりは」という文言がついていた。これでは、満洲のなかで何か小さな事件が起っても、またそれが明らかにロシア側の策動によるものであっても、あるいはまた、他の外国がどこかで別の行動をとっても、ロシアはそれを口実に撤兵を中止できるようになっている。
この文言には清国も最後まで抵抗したが、ウイッテは交渉の妥結を急いで清国側の交渉者を買収することにし、収賄した清国側はその案文を受諾した。
ここで、協定調印後六カ月以内に盛京省南部から、次の六カ月に盛京省北部と吉林省、次の六カ月に黒竜江省からのロシア兵撤兵が約束された。つまり、さきにロシアが獲得した東清鉄道沿いの駐兵権に基づくもの以外のロシア軍はすべて撤兵することとなったわけである。
この撤兵協約は一九〇二年四月八日に調印された。それから半年後の十月八日、ロシアは約束どおり第一次の撤兵をしたが、その次の第二次撤退期限は一九〇三年四月八日であった。第二次撤退の地域は、奉天を含む満洲の中心部であり、これがロシアの誠意を試すリトマス試験紙となったが、はたして、ロシアは約束を守る意志はなかった。
すでに、その前の三月ごろから、ロシアの部隊は増兵され、四月八日には、小部隊が名ばかりの撤退を行なったが、大部分の部隊は奉天の駅まで行進し、それから、もとの営舎に戻ってしまった。人を小馬鹿にした行動である。
不可避だったロシアの進出
こうしたロシアの態度の背景として、通常、ロシアの宮廷内の権力闘争が挙げられている。すなわち、宮廷に勤務していたベゾブラゾフ退役大尉がニコライの寵愛するところとなり、極東問題で積極策を推進するようになった。それでも、内務大臣がウイッテと親しいシピャーギンであったあいだは、ウイッテ蔵相、シピャーギン内相、ラムズドルフ外相、クロパトキン陸相の穏健路線に対抗できなかったが、シピャーギンが、まさに撤兵協定の成立した一九〇二年四月に暗殺され、プレーベが内務大臣となってからは、ベゾブラゾフ・グループの力は皇帝の庇護のもとに軍の中枢にまで及んだ。
そして、この権力闘争は、戦争前年の一九〇三年八月、ウイッテとクロパトキンが閣僚のポストからはずされ、それまで関東州長官兼太平洋艦隊司令官だったアレクセーエフが極東総督に昇進し、ベゾブラゾフが入閣して、積極派の勝利という決着を迎えることとなる。