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小村寿太郎とその時代
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歴史
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第九章 日本民族の興隆期

『小村寿太郎とその時代』
[著]岡崎久彦 [発行]PHP研究所


読了目安時間:35分
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──日本人の愛国心に世界は(きよう)(たん)した


時間との競争


 開戦前の日露の軍事力を()(かく)してみると、たしかに戦争するのは()(ぼう)と思えるような(かく)()があった。人口は日本が約三分の一であったが、(こう)の生産はロシアが百五十万トンだったのに対して日本は数万トンにすぎず、(せん)(てつ)もロシアの二百二十万トンに対してやはり数万トンだった。第二次世界大戦の前に、ウィンストン・チャーチルが(まつ)(おか)(よう)(すけ)外相に対して、鋼の生産が年間七百万トンしかない日本が七千五百万トン生産するアメリカや千二百五十万トン生産する英国と戦争できるだろうかといったのに(くら)べても、問題にならない格差であった。


 ウォーナーによれば、陸軍は一九〇四年一月の時点で、ロシアは(げん)(えき)百十三万五千人、()()(えき)(こう)()(えき)を加えて戦時動員可能勢力は三百五十万人だった。これに対し、日本は現役十八万人、予備役二十万人、後備役二十万人だった。


 陸軍戦力を()(だん)数で較べるのは難しい。冷戦時代、ソ連側一個師団に相当する戦力として、()(えい)(たい)の二ないし三個()(だん)を考えていた。それは一個師団の兵員、戦車、()(ほう)の数が違うからである。


 よく使われるのは、(ちよく)(せつ)(せん)(とう)に参加する歩兵大隊の数の比較である。一個大隊の大きさは、国によってそう違わない。これで較べると、ロシアは一七四〇個大隊、日本は一五六個大隊、ロシアが十倍強の戦力をもっていた。


 海軍の総()(ゆう)トン数は、ロシアが八十万トンそのうち戦争前までに(きよく)(とう)に配備されたのが十九万トンであるのに対して、日本は約二十六万トンであった。



 これでは日本が勝てるわけがない。日本の(ゆい)(いつ)の強みは極東がヨーロッパのロシア中心部から(はる)か遠くに離れており、そこまでの輸送に時間がかかり、また()(けん)した軍の(へい)(たん)()(きゆう)が難しいことであった。


 その意味で、日露戦争は時間との競争の戦争だった。


 一九〇五年三月十日の(ほう)(てん)の大会戦は、日本軍はあるだけ集めて二十五万、ロシア軍は三十二万という世界陸戦史でも最大()()の戦闘であった。


 そのころにはロシアはシベリア鉄道をフルに使えるようになり、月に五万人の増強が可能であり、戦争末期には月に六万人までが可能となっていた。


 もし、この会戦が半年(おく)れていたならば、ロシア軍の力はほぼ倍加されていたわけであり、どうやっても日本に勝ち目はなかった。逆に、半年早ければロシアが集められた兵力は前年九月の(りよう)(よう)戦の二十二万ぐらいであったろうから、戦闘の()(すう)いかんによっては、ロシア軍の主力(げき)(めつ)も可能だったであろう。


 その意味で、一日も早く戦争に持ち込もうとした小村の努力は、大(せん)(りやく)上きわめて正確であったといえよう。


()(たい)作戦の()(さん)


 時間との競争は、大戦略だけでなく、戦局のあらゆる面における主要な要素だった。考え方によっては、日露戦争を通じてすべての戦略戦術を、その観点から(かい)(しやく)することも可能である。戦争の初め、日本の(きん)(きゆう)の課題は、いかにして(ちよう)(せん)半島を(うかが)っているロシア軍を追い払うかであった。そして、その後は、満洲南部の陽を(きよ)(てん)としているロシア軍と(りよ)(じゆん)(よう)(さい)のロシア軍との連絡を断ち切ることであり、そのうえで、陽に集結しているロシア軍が大兵力にならないうちに、これを(げき)(めつ)することであった。


 その決め手となるのは、どれだけ早く、どれだけ多くの兵力を朝鮮北部、満洲南部に送り込めるかである。


 朝鮮北部に兵力を送るには、船で仁川(じんせん)に運ぶのが早い。()(さん)、あるいは東海岸の(げん)(ざん)に上陸して(あく)()辿(たど)って行軍するのに較べると約一カ月早い。しかし、そのためには(こう)(かい)(せい)(かい)(けん)を確保しなければならない。日本の最初の作戦がロシアの旅順(かん)(たい)の攻撃から始まったのもそうした理由からである。



 他方ロシア側の作戦は、一九〇一年の計画によれば、旅順とウラジオストックは守る一方、主力は奉天、陽に集結して、日本軍の攻撃を()(たい)させながらハルビンまで下がり、(ぞう)(えん)の結果日本軍より(まさ)る兵力比を達成してから攻勢に転じるというものだった。一九〇三年の計画もほぼ同じで、はじめは(ぼう)(せい)作戦を行ない、(ぞう)(えん)を得てから、日本軍を満洲、朝鮮から追い落すという作戦であった。開戦直前にツアーの(さい)()を得た計画も、ハルビンまでの(てつ)退(たい)を考えていた。


 陽、奉天などの大会戦で、ロシア軍がもう一押しすれば日本軍が(かい)(めつ)したかもしれない()()的な場面で、ロシアの側から退(たい)(きやく)しているのは、もともとこういう戦略があったからである。後退しても増援さえくればいつかは勝つにきまっている。決戦を求めれば五分五分のチャンスで勝てるかもしれないが、日本軍の(もう)(ゆう)を前にして、(いち)(ばち)かの(かけ)に出る必要はまったくない。日本軍を遅滞させる効果はすでに収めたのだから、適当なところで、主力を(おん)(ぞん)して撤退していけばよい。いろいろ()(はん)する人はいようが、ツアーの前で(さい)()された大きな基本方針に沿()ってのことだから、それほど重大な責任はとらなくてすむ。こう考えれば、日露戦争の陸戦は、ほぼロシア側の作戦どおり進んだといってもよい。



 しかし結果として見ると、この遅滞作戦が日露戦争におけるロシアの最大の敗因となったともいえる。

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