『小村寿太郎とその時代』
[著]岡崎久彦
[発行]PHP研究所
──他に選択肢はあったのだろうか
日韓議定書
韓国は李朝末期までは朝鮮と称した。いまの韓国の人は朝鮮という名を嫌がるが本来はそう悪い名ではない。李朝創立(一三九三年)に際して太祖李成桂が古の箕子が封じられたという朝鮮という名にしましょうか、李成桂の出身地名である和寧という名にしましょうかと明の意見を求めたのに対して、明の太祖が「朝鮮の名は美にしてその由来遠し」として朝鮮を選んだ。
ただ国名を明国に選んで貰ったこと自体、中国への冊封関係を意味するものでもあり、日清戦争で中国の宗主権が否定された機会に、大韓帝国と改称した。したがって、韓国という名は清国の羈絆を脱したという意味で朝鮮民族のナショナリズムにとっては特別の意味をもつ言葉でもあり、その後の時期については韓国と呼ぶのが正しい。
戦争に至る経緯からみて明らかなように、日露戦争の最大の目的は、韓国を日本の支配下に置くことにあった。また当初の戦場は韓国内にあったので戦争遂行上日本軍が韓国内で自由に作戦行動ができるようにしておく当然の必要もあった。
そこで一九〇四年二月に戦争が始まると、すぐにソウルの日本公使は韓国側と交渉して日韓議定書を結ばせた。それは、日本は韓国防衛のために必要な措置をとることができ、韓国はそれに反する協定を第三国──つまりロシア──と結ばないと取り決めたものである。韓国の領土を自由に軍事使用できるということであり、また韓国の外交権を制限するという意味で保護国化の第一歩でもあった。
開戦と同時に日本軍は仁川に上陸し、ソウルを占領したので、韓国の宮廷としては抵抗する方法もない状況であった。しかし、当時はこうした主権制限自体については必ずしも強い抵抗の意志があったわけではなかった。
反対はもっぱら親露派からきた。開戦前から、朝廷のなかには親日派と親露派があって、日露それぞれの公使館とつながり、金銭を含む支援を受けていたようである。しかし、親露派といっても、べつにロシアのほうを信用するというわけではなく、日本と協定などを結んでいると、もしロシアが戦争に勝つと、それを口実にロシアに併合されてしまうという、それなりに現実的な見通しのうえに立った憂慮からくるものであった。
また当初は、一般民衆は反日的ではなかった。『朝鮮の悲劇』で日本の韓国支配を厳しく批判しているマッケンジーも、戦争の「最初の数週間、どこでも、韓国民から日本軍に対する友好的な話ばかり聞かされた。労働者や農民は、日本が、自国の地方役人の圧制を正してくれると望んでいた。また上層階級の大部分、とくにある程度外国の教育を受けたような人々は、日本の約束を信じ、かつ従来の経験から、韓国の抜本的な改革は外国の援助なしにはできないと確信して、日本に心を寄せていた」と記している。つまり改革のための日本の外圧期待である。その日本がやがて韓国独立の約束を裏切り、一般国民を収奪するにつれて対日不満が高まっていく過程を描写するのが、このマッケンジーの本の主題である。
したがって日韓議定書は、国王の命令で親露派を日本に漫遊させて、そのあいだに調印する程度の工夫で、大した波瀾もなく成立した。しかしその後、戦争の全期間を通じて、日本は一貫して、表には韓国の独立を標榜しつつ、裏の外交では日本の自由裁量権を得るために腐心した。
パワー・ポリティックスの人・ローズヴェルト
ポーツマスに赴く際に小村寿太郎が受けた訓令のなかの「絶対的必要条件」の第一は、「韓国を全然わが自由処分に委すべきを露国をして約諾せしむること」であった。
ローズヴェルトは終始日本の韓国政策を支持した。彼はアメリカの外交史のなかで、例外的に、国際政治をパワー・ポリティックスで理解した人であり、二十世紀を通じてアメリカ外交の一つの指導理念となるウィルソン主義に真っ向から反対した人である。