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(2021/11/26 追記)

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棋士という生き方
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3章 将棋界の未来

『棋士という生き方』
[著]石田和雄 [発行]イースト・プレス


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天二物を与えず



 新しく生まれ変わった柏将棋センターは、次第に来場者も増えていきました。支部会員もそこそことなり、順調な滑り出しだったのです。


 しかし、うまい話ばかりではありません。対局が命の棋士としては、大きな犠牲を払うことになったのです。


 私は二十年近くB級1組以上に所属していました。それが1995年。B級2組に降級してしまったのです。これは大変な痛手でした。「天二物を与えず」とは、このことです。


 しかし、あの時の決断、将棋センターを経営しようという選択はよかったと、今は思っています。広い意味で普及の一大拠点、柏将棋センターの重みは、対局を犠牲にしても余りあるはずです。そうでなければ納得ができません。


 四十代後半から五十代は、対局と将棋センターの二本立てで棋士生活を送りました。忙しい毎日でした。しかし、吉田さんという優れた手合係にも恵まれ、ずいぶんと助けられて、楽しく過ごした時期でもありました。


 対局に勝てば、祝杯。負ければ無念の思いを、一杯。そうして飲む酒は、今思えば懐かしいものです。


三枚堂達也君



 将棋好きの少年がどのようにプロになっていったのか。三枚堂君の例をあげてクローズアップしてみましょう。内藤國雄九段門下ですが、私の弟子の一人と言っても過言ではない、三枚堂達也現六段のお話をしましょう。


 三枚堂達也君は1993年7月14日、千葉県浦安市で生まれました。浦安は、東京ディズニーランドがあることで、全国的にも有名なところです。


 達也君は、1歳で10まで数をかぞえることができ、2歳でひらがな、3歳でアルファベット、4歳でローマ字や漢字まで読めたというのだから、もともと、とても賢かった。さらに、4歳の時には親戚の大学生にオセロで勝っていたというのだから、驚きです。


 達也君の成長には、達也君を溺愛していた、母方のおじいさんの(なか)(がわ)(くに)()さんが大きく影響しています。


 中川さんは自身が少年の時、小学5年から6年の間、有名な児童文学者の(よし)(おか)たすく先生(1915-2000)が担任だったそうです。

「子供の能力は無限大。大人が『これはできないだろう』と枠をはめてしまっては駄目だ。何でもチャレンジさせて見守ってあげることが大切だ」


 そういう吉岡先生の教えを、中川さんは意識して、孫の達也君が興味を持ったことは、できるだけ希望に添えるようにしたそうです。


 中川さん(達也君のおじいさん)は銀行員でした。ある支店で、支店長を務めていたときに、たまたま内藤國雄九段と親しくなった。前述の通り、内藤さんは『おゆき』のヒットで大タレントとなり、将棋も華麗な棋風で知られる、一流棋士です。

「お孫さん、どうしているの?」


 おじいさんは、内藤さんから電話でそう尋ねられ、孫はオセロに夢中になっている、という話をしたところ、

「オセロと将棋は通ずるものがある。将棋を教えてみたら」


 と言われたそうです。達也君のおじいさんも、ご家族も、将棋はほとんど知らない。そこで内藤さんは、まず将棋の盤と駒を買うこと、それから「回り将棋」や「はさみ将棋」をさせて、まず将棋になじむことをアドバイスしたそうです。


 そうして将棋の盤と駒を使って遊んでいるうちに、達也君は将棋を指せるようにもなりました。本格的に将棋を始めるため、家の近くのクラブに、指しに行っていいかどうか、電話で問い合わせたところ、

「そんな小さな子供は無理ですよ」


 と断られたりもしたそうです。おじいさんは4歳の孫を受け入れてくれるクラブ(東京都葛西)に送り迎えするため、車で自宅(浦安)から遠く離れた達也君のご両親の家(埼玉県所沢市)まで迎えに行き、クラブに送り迎えをする。そのため、1日240kmも車を運転していたそうです。こうした家族の応援に支えられて、今の将棋の強い少年少女は育つようです。


 達也君が5歳の時、ご両親と一緒に、千葉県流山市に引っ越してきた。柏市の近くです。

「それはよかった。柏でプロ棋士の石田和雄先生が将棋センターを開いている。すぐに達也を連れていきなさい。石田先生は子供の将棋指導は名人クラスだよ」


 内藤さんはおじいさんに、そう言われたそうです。


柏将棋センターの天才少年



 1999年2月27日。5歳7か月の三枚堂達也君が柏将棋センターを訪れてきました。


 彼の実力は9級ぐらいでした。しかし、もう少し下からスタートして、昇級していく方が本人のやる気を起こさせることになると思いましたので、12級から始めさせることにしました。


 ほとんどの将棋クラブでは、常連のお客さんの名前を記した名札が、六段、五段の高段者から、初心者に近い級位者までの順で、ボードにかけられています。


 当時、柏将棋センターのボードには、600名ほどの名札がかけられていました。その「12級」のところに、「三枚堂達也」という名札をかけました。


 その後、達也君はトントン拍子で昇級していきました。半年後の10月にはもう、3級です。少しずつ級が上がっていくのは、子供たちにとっては、励みとなるようです。


 1999年8月。毎年夏恒例の、柏市小学生将棋大会が開催されました。この大会は現在も続いていて、将棋の駒の動かし方を知っている子ならば、誰でも参加することができます。


 まだ幼稚園生だった三枚堂達也君も、大会に参加しました。当時は「1~4年生の部」「5~6年生の部」に分かれていました。達也君は「1~4年生の部」に参加して、5連勝してしまいました。残念ながら、参加資格の関係で「優勝」とするわけにはいかず、「特別賞」の受賞です。


 以前の柏将棋センターの近くには、「志奈乃」というお蕎麦屋さんがありました。ここは美味しくて有名でした。店主の()(とう)さんの長男の(たか)()さんは、少年の頃から柏将棋センターに通ってきていた常連です。本格的に始めたのが中学1年と少し遅かったのですが、もう少し早く始めていれば、プロになっていてもおかしくない才能があった。明治大学に進学して学生将棋界でも活躍し、アマチュア名人戦の全国大会で準優勝したこともあります。達也君はお蕎麦を食べに行った時でも、伊藤享史さんがいれば、よく指してもらっていました。


 達也君は、東京・将棋会館の道場にも通っていました。そして、幼稚園のうちに、初段になりました。これは長い歴史を誇る将棋連盟道場でも、過去に例がない。藤井聡太君の幼少時の早熟ぶりがよく取り上げられますが、達也君の上達の早さは、それに優るとも劣りません。地元紙の「東葛まいにち」には、次のように紹介されています。



 柏将棋センター(主宰・石田和雄九段)に所属する三枚堂達也君(6歳、流山・ひまわり幼稚園)がこのほど将棋会館の初段になった。幼稚園児の初段合格は極めてまれとのことで、この小さな豆棋士さんの将来に期待が寄せられている。


 4歳でルールを覚え、柏将棋センターに籍を置いたのは、5歳の1年前。将棋が好きで幼稚園から帰ると50冊以上は持っているという将棋の本を読み、将棋のTVゲームで研究を重ねる。また土日はセンターに通い腕を磨き、12級からスタートしたにもかかわらず、わずか1年で急激な成長を遂げた。また大会慣れと腕試しにと、おじいちゃんの中川邦夫さん(63)と一緒に軽井沢や大阪などへ出向くこともある。

(「東葛まいにち」2000年3月25日)



 2000年8月。柏市小学生将棋大会に出場した小1の達也君は、低学年(1~4年)の部で優勝。高学年(5~6年)の部で優勝した子も破って、総合優勝しています。


 そして小1の時には、アマ二段。柏将棋センターの天才少年と言われていました。


佐々木勇気君



 私は長考で例外でしたが、いつの時代も、強い子供は早見え早指しです。大人がうんうん考えた後、子供はぱっと指す。だから大人の方で、そういう子供と対局するのはイヤだということがあります。達也君にも、そういうことがあった。

「達也にもう少し落ち着いて指すように注意してください」


 おじいさんから、そう言われたことがあります。しかし、私はこう答えた。

「確かに早指しだ。負ける将棋の見切りも早い。どうせ負けるなら早く指して、もう一局指したいという感じだな。しかし、早指しができることは特技です。早指しが苦手な人にとっては、羨ましいことなんだ。特技を消してしまうのはもったいない。もう少し、様子を見ましょう」


 そして、私は達也君のおじいさんに、こうも言いました。

「達也君にはライバルが必要です」


 と。天才少年ともてはやされ、正直ちょっと、天狗気味になっていましたから、将棋を軽く見て成長しなくなると思ったからです。


 そしておじいさんは、すぐにライバルの名が浮かんだそうです。それが、ほんのわずかの期間ですが、将棋会館の教室に通っていた、達也君より1歳下の、佐々木勇気君でした。


 勇気君はお母さんと一緒に、埼玉県三郷市から、1時間ぐらいかけて、将棋会館のある東京の千駄ヶ谷まで通っていた。柏将棋センターならば、30分から40分ぐらいです。おじいさんがお母さんに声をかけて、勇気君もセンターに通うことになりました。


 勇気君は最初、1級でした。そこからなかなか勝てず、5勝10敗、4勝11敗という成績でした。

「3級に降格して、やり直しますか?」


 お母さんにそう言った翌日から、勇気君は勝ち始めました。


 達ちゃんと勇気君。二人は毎日のように通ってきて、切磋琢磨し、センターで腕を磨きました。そして勇気君は1年後、小学1年でアマ四段となります。あの大天才、藤井聡太君でさえ、小1の時にはアマ初段ですから、いかに勇気君が強かったか、おわかりいただけるでしょうか。


 勇気君はさらに1年後、小2の時には、アマ五段になっていました。これは異例の上達スピードです。


 勇気君は少年の頃は、子供らしからぬほどに急所で確認し、勝負に(から)かった(今は逆に早く指し、手がすべる)。これはただ者じゃないなと思いました。私が教えたわけじゃない。でも、早くからそういうことが身についている。私はこの子を羽生さんのようにしようと思い、つきっきりでプロの手筋を覚えさせました。


 たとえば「と金」は、盤の隅の香を取るのではなく、盤の中央に寄せて使うのが本筋である。そういったことを教えました。私は常に後ろから、彼の対局を見守っていました。その思いが通じたのでしょうか。勇気君は毎日のように柏将棋センターに通うようになります。


 私はこの少年たちの成長を生きがいの一つとしました。対局を見守りながらも、マナーについてはあまり厳しく指導しませんでしたが、よく叱りつけていたものです。


 達也君と勇気君は、センターの人気者となりました。私だけではなく、みんなからかわいがられた。女性スタッフからは、

「えらくなっても、おばちゃんのこと忘れないでね」


 なんて言われてた。


 以前に将棋センターが入っていたビルの屋上で、二人はよく遊んでいました。

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