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歴史のねむる里へ
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鎌倉(一) 北条氏興亡の跡

『歴史のねむる里へ』
[著]永井路子 [発行]PHP研究所


読了目安時間:16分
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血と権謀



 鎌倉──といえば、すぐ頭にうかぶのは源氏三代だが、じつは彼らの記憶につらなるものは、ほとんど地上から姿を消している。その栄光を物語るものといえば、まず鶴岡八幡宮だが、残念ながら建物は後世のものだ。


 これはその後に覇権を獲得した北条氏についてもいえることだ。激しい戦いの中に滅びていった武家政権であってみれば当然のことではあるが、しかし、現在の八幡宮が源氏の栄光を語るというような意味でなら、まだしも北条氏の歴史を刻んだものは数多く残っている。鎌倉の歴史を歩いてみるなら、しぜん北条氏の跡を辿るということになろうか。中世の歴史の真のにない手は頼朝ではなくて東国武士団、そしてその中枢にあったのが彼らなのだから、これも、しぜんのなりゆきかもしれないが。



 頼朝が鎌倉入りした当時、北条氏はまだ中小豪族の一つにしかすぎなかった。娘の政子が頼朝の妻になっているとはいえ、兵力も所領も、畠山、千葉、小山よりはるかに劣り、また源氏とのゆかりも、先代の義朝以来切っても切れない縁のあった三浦、()()といった連中に比べればごく浅いというよりほかはない。


 そのことを考えて鎌倉を歩くと興味が深い。まず当時の幕府は八幡宮に向って右の奥、現在の清泉小学校のあたりにある。ここにはいまも(ひがし)()(かど)西(にし)()(かど)という地名が残っていて、わずかに昔をしのぶ手がかりを与えてくれているのだが、さて、この幕府の近辺を固めていたのは、畠山、三浦、和田(三浦の一族)だった。北条氏の邸はそれからやや離れて八幡宮の前の道を右に折れた突きあたり、現在の(ほう)(かい)()という寺のところ、といわれている。もっともここは北条義時の邸だったらしく、父の時政の館は鎌倉の東のはずれ、()(ごえ)の尾根にあった。ここから幕府まではかなりの距離があるので、出仕のためには時政は義時邸を(あし)()にしていたことと思われる。


 一方、頼朝の不遇時代二十年間生活の資を送りつづけた忠実な乳母(めのと)()(きの)(あま)を中心とする比企一族の館は、義時邸(宝戒寺)からさらに南に下ったところにあった。ここは現在妙本寺という寺になっているが、周辺に()(きが)(やつ)という地名が残っている。この谷(やつ・やと)とか谷戸というのは鎌倉特有の呼び方で、市街をとりまく丘陵にはさまれた平地をいう。背後に小高い尾根をめぐらしているから天然の要害である。比企の館は幕府からは離れているが、ふところの深い谷戸で、城塞としてみれば鎌倉屈指の地形である。頼朝は、鎌倉の中央に位置するこの谷を比企一族に与え、幕府の守りにしたのだろう。これら豪族の力関係を考えながら歩くと、静かなたたずまいをしめす古寺も、にわかになまぐさい色を帯びてくるからふしぎである。


 配置から見ても、北条氏の前途は容易なものではなかった。

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